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本能寺の変の直後、なぜフロイスは織田信長の毛髪や骨すらも残らなかったと言ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の信長公廟。(写真:イメージマート)

 過日のニュースによると、陽明文庫(京都市右京区)から本能寺の変に関する新しい史料が発見された。こちら

 17世紀後半頃、近衛基煕(1648~1722)が記録したもので、内容は白川雅朝王(1555~1631)が後水尾天皇(1596~1680)に語っていた体験談を古話を参の女房が聞いたものらしい。

 とはいえ、いかんせん本能寺の変から約100年を経過していると考えられるので、記事にあるとおり、その扱いには慎重になるべきだろう。

 本能寺の変そのものについては、『兼見卿記』などの公家日記などに記されている。いずれも、本能寺の変の模様を見聞した者がもたらした情報であり、比較的信が置けるものだ。信長の一代記『信長記』(『信長公記』:太田牛一著)には、信長の最期の模様が詳しく記されている。

 むろん、牛一が本能寺の内部に踏み込んで、信長の最期を直接見たとは考えられない。本能寺から脱出した女中の証言ではないかという説もあるが、女中も逃げるのに必死だっただろうだから、アテにはならない。牛一が信長にふさわしい最期を創作した可能性もあろう。

 『信長記』のように、ある人物の死や事件の終結後、時を経て編纂された史料を二次史料という。同時代に成立した一次史料(書状、日記)は信憑性が高いものの、二次史料は玉石混交なので注意が必要である。『信長記』は二次史料とはいえ、比較的信憑性が高いとされるが、全面的に信を置いてはいけないだろう。

 信長の死については、ルイス・フロイスの『日本史』(第56章)にも記述がある。フロイスは信長が万人を恐怖に陥れた人物としたうえで、「毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったことである」と述べる。

 当時、フロイスは京都にいなかったので、信長の死を人伝に聞いたのは明らかである。現場で信長の最期を見たわけではない。そして、フロイスがここまで信長の死の模様を酷く書いたのには、もちろん理由があった。

 フロイスにとって、信長はキリスト教の布教を許してくれた恩人だった。安土城下には、神学校も置かれた。ところが、信長はキリスト教の信者ではなく、法華宗や禅宗を信仰していた。

 キリスト教は一神教なので、フロイスは信長がほかの宗教を信仰していることが許せなかった。また、信長はキリスト教に寛容だったが、先頭に立って布教を支援したわけではない。ゆえに、フロイスの布教活動はなかなか進まなかった。

 つまり、フロイスは信長が布教に協力的な態度でないことに苛立ち、信長の毛髪や骨すらも燃え尽きて残らなかったと発言したと考えられる。信長の死後、本能寺の焼け跡からその遺骸は見つからなかった。

 見つからなかったというよりは、わからなかったというのが正確だろう。真っ黒に焦げた遺骸が転がっている中で、どれが信長の遺骸なのか判断がつかなかったのである。

 本能寺の変に関しては、多くの二次史料で雄弁に物語られてきた。しかし、中には時間の経過とともに、余計な情報が付加されて、おもしろおかしく伝わったものもある。そのようなことなので、あまりに「おもしろい!」という二次史料の記述には注意すべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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