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1月1日は、豊臣秀吉の誕生日ではなかった。その真相を諸史料から探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 2024年がはじまって早くも10日余り。楽しいお正月もあっという間に去ってしまった。ところで、1月1日は豊臣秀吉の誕生日であるとされてきたが、それは誤りであるとの指摘があるので、その辺りを紹介しておこう。

 豊臣秀吉が誕生したのは、天文5年(1536)1月1日とされてきた。このことを記しているのは、『太閤素生記』や『明良洪範』といった史料である。

 一方で、『朝日物語』は同年6月15日が秀吉の生まれた日であると記録する。さらに、『関白任官記』は天文6年(1537)2月6日を秀吉の生誕日とする。つまり、残っている記録を参考にすると、すべて相違していることが判明する。

 『太閤素生記』、『明良洪範』、『朝日物語』は、江戸時代に成立した編纂物である。『関白任官記』は秀吉の御伽衆を務めた大村由己の手になるもので、16世紀の終わり頃に成立した。史料の質からすれば、『関白任官記』に軍配が上がるのだが、ほかの史料も交えて、もう少し考えてみよう。

 ところで、秀吉の誕生日が1月1日という日になったのには、もちろん理由があるだろう。秀吉は農民から身を起こして関白となり、やがて諸大名を従えて天下人になった。そういう秀吉だからこそ、普通の中途半端な月日ではなく、1月1日というもっともめでたい日になったと考えられる。

 慶長3年(1598)8月18日、秀吉は病により亡くなった。『公卿補任』(公卿の名簿)は、秀吉の没年齢を63歳と記す。ここから逆算すると、秀吉の生年は天文5年になる。

 つまり、1月1日が誕生であるか否かは別として、秀吉の天文5年誕生説が支持された理由である。『公卿補任』も編纂物であるが、さすがにいいかげんなことは書かないだろうということだ。

 ところが、天文6年誕生説も負けていない。天文6年誕生説を唱えるのは、太田牛一『豊国大明神臨時御祭礼記録』、竹中重門『豊鑑』のほか、『当代記』、『朝鮮国御進発人数帳』がある。とはいえ、いずれも決定打にならず、長らく論争が続いてきた。

 しかし、天正18年(1590)12月吉日伊藤秀盛願文写(「桜井文書」)の記載により、天文6年誕生説が最有力になったのだ。この願文には、「関白様(豊臣秀吉) 酉之御歳 御年五十四歳」と書かれている。

 ここから生年を割り出すと、秀吉は天文6年に誕生したことになる。そうなると、秀吉に近侍していた大村由己の『関白任官記』の記事にあるとおり、秀吉の誕生日は天文6年2月6日とすべきかもしれない。

主要参考文献

桑田忠親『豊臣秀吉』(角川書店、1975年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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