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乱暴だったのは藤原道兼ではなく、子の兼隆のほうだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」の初回には、藤原道長の兄の道兼が登場していた。道兼は上級貴族の家に生まれながらも、非常に乱暴者で感情のコントロールができなかった。一連の暴力が事実なのか、考えてみることにしよう。

 藤原道兼(961~995)は、摂政を関白を務めた兼家の三男として誕生した。兄に道隆、弟に道長がいる。道兼は長徳元年(995)に関白だった兄の道隆が亡くなると、そのあとを受け次いで関白に就任した。

 しかし、道兼も就任直後に急死したので、「七日関白」と称された。道兼の死後、内覧として職務を引き継いだのは、弟の道長だったのである。

 ところで、ドラマの中の道兼は、極めて横暴な人物として描かれていた。弟の三郎(道長)が小生意気なことを言うと殴り倒し、虫の居所が悪いと従者を殴り倒した。三郎がそういう横暴を咎めると、また殴り倒すという具合である。

 それどころか、挙句の果ては、道兼の馬の前に飛び出した「まひろ(紫式部)」の母を怒りに任せて殺害した。「まひろ」の母が若くして亡くなったのは事実だが、道兼に殺されたという記録はない。これは、ドラマ上の創作ということになろう。

 道兼が乱暴者だったという記録は、確認することができない。しかし、藤原実資の日記『小右記』長和2年(1014)8月10日条の記事には、「藤原兼隆が厩舎人(うまやとねり:主人の馬を世話する従者)を殴り殺させた」と書かれている。兼隆(985~1053)というのは、道兼の次男である。

 おそらく、兼隆が自らの手で厩舎人を殴り殺したのではなく、配下の者に命じて殺害させたのだろう。ただ、『小右記』を見ても、厩舎人が殴り殺された理由は書かれていない。ドラマで道兼は従者を殴り倒していたが、兼隆は殺してしまったのである。

 当時、兼隆は29歳だったので、十分に分別があったはずである。厩舎人は馬の世話をするだけではなく、主人が乗った馬の口を引くこともあった。互いに親しく声を掛け合うこともあっただろうから、誠に陰惨な事件である。

 当時は主人が従者を殺しても、特段罪には問われなかったようである。つまり、上級貴族が気分次第で従者を殺すことは、十分にありうることだったのだろう。とはいえ、さすがに殺人は憚られるところはあったので、こういう噂が流れることで、兼隆の評判が落ちた可能性はある。

 『小右記』長和3年(1015)正月28日条によると、兼隆は右大臣だった藤原実資の下女の家を襲撃し、さんざん略奪した挙句、家を打ち壊したという。兼隆が凶行に及んだのは、兼隆の下女と実資の下女が口論となり、激怒したからだった。兼隆という男は、非常にキレやすかったようだ。

主要参考文献

繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(柏書房、2005年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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