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熾烈な兄弟間の争いを演じた藤原兼家と兄の兼通

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」は紫式部を主人公とするが、一方で藤原氏の動きも見逃すことができない。ドラマの第1回の時点で、段田安則さんが演じる藤原兼家も注目すべき人物である。兼家について、もう少し詳しく解説しておこう。

 安和2年(969)、円融天皇が即位した。しかし、当時まだ円融天皇は11歳と幼かったので、太政大臣の藤原実頼が摂政を務めることになった。このとき当時に、師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子となった。

 師貞親王の外祖父が藤原伊尹である。伊尹の父は師輔で、兼通と兼家は伊尹の弟だった。師貞親王が皇太子となったことで、伊尹には明るい未来が待っていた。師貞親王が天皇位に就けば、自ら権勢を振るうことができるからである。

 天禄元年(970)、実頼が病没したので、伊尹が摂政の職を引き継ぐことになった。しかし、幸運は長く続かなかった。天禄3年(972)8月、伊尹は病に罹り、11月に亡くなったのである。伊尹の死は、兼通・兼家兄弟の権力闘争を呼び起こしたのである。

 実は、兼通・兼家兄弟の関係は、実に複雑だった。天禄3年(972)の時点において、4歳年長の兄の兼通が権中納言だったのに対し、弟の兼家はその上の大納言になっていたのである。

 2人の母は同じだったので、官位が兄弟で逆転したのは、極めて異例の出来事だった。こうした状況だったので、伊尹の死後、後継者となるのは誰もが兼家と考えた。しかし、実際に関白の座に就いたのは、兼通だったのである。

 一説によると、兼通は妹の安子皇后(円融天皇の母)の存命中、「関白は兄弟の順に与えるようにし、決して順番を違えてはいけません」と書いてもらい、お守りにしていたという。

 伊尹の死後、兼通は円融天皇にこのお守りを見せ、関白になったのだという。円融天皇は、母の遺命に背くわけに行かなかった。つまり、安子皇后の遺言が実現したということになるが、この話は疑わしいとされている。

 平親信の日記『親信卿記』によると、伊尹の遺命が兼通の関白就任に大きく作用したという。親信は伊尹の家司であり、円融天皇のもとで蔵人を務めていたので、信憑性が高いといえよう。しかし、貞元2年(977)、兼通は重病となった。ここで、兼家に最大の不幸が訪れた。

 『大鏡』によると、兼家は兼通の邸宅の前を素通りし、見舞いにも行かず、内裏に向かった。兼家は兼通が死んだと思い、「次の関白は私に」と直訴しようとしたのである。兼家としては、いささか軽率だった。

 怒った兼通は重病にもかかわらず、力を振り絞って最後の除目を執り行った。その結果、兼通は次の関白に藤原頼忠(実頼の子)を指名し、兼家から右大将の職を剥奪し、治部卿に降格したのである。その直後、兼通は亡くなったのである。

主要参考文献

朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1997年)

倉本一宏『藤原氏 ―権力中枢の一族』(中公新書、2017年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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