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徳川家康に見初められて側室になった、おもしろい経歴の3人の女性

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と女性との関係がユニークに描かれていた。ドラマに登場していない女性もいるが、うち家康に見初められて側室になった、3人の経歴を取り上げることにしよう。

◎於万(1577?~1653)

 於万は、正木頼忠と智光院の娘という説が有力であるが、父母については諸説ある。のちに、於万は、駿河国大平村(静岡県沼津市)で名主を務めていた星谷縫殿右衛門に養育されたと伝わっている。

 於万が家康の側室になったのは、三島(静岡県三島市)で家康が入浴しているとき、見初められたからだといわれている。於万はいったん家康の配下にあった江川英長の養女となり、家康の側室に迎えられたという。

 家康は於万との間に、頼宣(紀州徳川家初代)、頼房(水戸徳川家初代)という2人の子をもうけた。一説によると、於万は熱烈に日蓮宗を信仰しており、浄土宗信者の家康に宗論をたびたび挑んだという。

 家康の死後、於万は法華経一万部読誦の大法要を身延山で開催し、満願の日には七面山に行ったという。於万が亡くなったのは、承応2年(1653)。墓は、本遠寺(山梨県身延町)、妙法華寺(静岡県三島市)にある。

*3つ目に取り上げる、於万〔於古茶などとも〕とは別人である。

◎茶阿(1559?~1621)

 茶阿の父母は未詳で、家康と結ばれる前は遠江国金谷村の鋳物師の後妻となり、娘を生んでいた。しかし、茶阿の美貌を知った代官は横恋慕し、あろうことか夫の鋳物師を殺害したのである。

 茶阿は娘を連れて逃げると、家康のもとを訪れ、夫の仇である代官を討ってほしいと懇願した。家康は代官を処罰すると、そのまま茶阿を側室とし、浜松城に迎えたのである。おそらく家康は、茶阿の美しさに惚れ込んだのだろう。

 家康は茶阿との間に、松平忠輝、松平松千代という2人の子をもうけた。しかし、忠輝は五郎八姫(伊達政宗の娘)を妻とし、越後国高田に75万石を与えられたが、兄の秀忠から失態を咎められて失脚した。

 弟の松千代は、慶長4年(1599)に6歳で亡くなった。茶阿は有能な人物で、家康から奥向きのことを任されたというが、元和7年(1621)に病没した。墓は、宗慶寺(東京都文京区)にある。

◎於古茶(1548~1620)

 於古茶の父は、知立神社(愛知県知立市)の神官の永見貞英だったといわれている。そもそも於古茶は、築山殿(家康の正室)の奥女中を務めていた。

 のちに、於古茶は家康の手付けによって妊娠し、側室に迎えられたといわれている。家康は於古茶と間に、次男の秀康をもうけた。しかし、築山殿は於古茶を側室として認めなかったので、浜松城から追い出したといわれている。

 浜松城を追放された於古茶は、宇布見村(静岡県浜松市)の中村家で秀康を産んだという。それは、家康配下の本多重次が手配したものだった。

 一説によると、正室には側室を決定する権利があり、この場合は築山殿の承認がなかったので、追放されたという。こうしたシステムが普遍的なものなのか、徳川家独自のルールなのか不明である。於古茶が亡くなったのは、元和5年(1619)のことである。

*1つ目に取り上げた、もう一人の於万〔養珠院〕とは別人である。

※女性の呼び名は一定することが少なく、諸説あることを申し添えます。

主要参考文献

原田伴彦「家康の閨閥と女性観」(『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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