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大坂夏の陣後も徳川家康の政治への意欲は衰えず、大名統制に力を入れたワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
駿府城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、大坂夏の陣では徳川方が豊臣方に勝利した。家康は豊臣家を滅亡に追いやったものの、その後も政治への意欲は衰えず、大名統制に余念がなかったという。その辺りの政策について、取り上げることにしよう。

 慶長10年(1605)4月、家康は征夷大将軍の職を辞し、子の秀忠に譲ったものの、政治への意欲へ決して失わなかった。その2年後、家康は駿府城に移り、いわゆる大御所政治を行った。秀忠は幕府制度の整備、東国大名の統制を行い、家康は朝廷や寺社あるいは西国大名の統制を行い、外交面を担当したという。

 家康は大御所政治で実権を握り続けることにより、権力に固執していたわけではない。戦国大名の例にも見られるように、当主が早い段階で家督から退き、子を後継者とすることがあった。

 そして、親は子の後見をしながら、親子で権限を分掌して支配を行い、緩やかに権限の委譲を行ったのである。大御所政治の場合も同じことで、権力移譲を円滑に進める一形態とみなしてよいだろう。

 家康が大坂夏の陣で豊臣家を滅亡に追い込んだとき、もう年齢は74歳になっていた。当時にあってはかなりの高齢だったが、なお家康は幕府内で強い存在感を示していた。

 家康には、残された大仕事があった。「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「一国一城令」の制定である。次に、「一国一城令」を取り上げることにしよう。

 元和元年(1615)6月、家康は「武家諸法度」の前段階として、「一国一城令」を制定した。「一国一城令」が法令であったか否かについては、まだまだ議論がある。というのも、「一国一城令」は法令のような形式を有していないからである。いずれにせよ、その骨子はおおむね次のとおりである。

 「一国一城令」では、大名当主の本城のほか、領内における家臣らの支城を破却し、大名領国における臨戦的な軍事体制を否定した。戦争の時代が終わり、平和な時代に即した対応だった。

 「一国一城令」が発布されると、わずか数日のうちに、全国の約400もの城が破却されたという。この政策は、来るべき「武家諸法度」制定の布石だったことは疑いないと考えられる。

 大名の配下には家臣がおり、なかには1万石以上の大身のものが存在した。大名領国では当主の本城がある一方、領内における大身の家臣らも城を持ち、本拠として支配を行っていた。家臣は当主の指揮命令系統にあったとはいえ、彼らはいうならば「ミニ大名」のようなものだった。

 しかし、城は支配の拠点としてだけではなく、軍事施設という性格も有していた。織豊期において、織田信長らが敗北した大名の城を破却したのは、軍事施設としての城を壊すことで、再び残党らが反乱を起こさせないための対処だった(破城令)。家康も、信長の例にならったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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