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大坂夏の陣で大奮闘した真田信繁には、本当に影武者が存在したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、豊臣方の武将として活躍した真田信繁も無念の死を遂げた。一説によると、信繁には影武者がいたというが、それが事実なのか考えることにしよう。

 戦国時代の武将(武田信玄など)には、影武者が存在したといわれているが、それが事実なのかは確証を得られない。信繁には、三浦国英、山田友宗、木村公守、伊藤継基、林寛高、斑鳩(鵤)祐貞、望月村雄の7人の影武者が存在したという。信繁は彼らに家臣や鉄砲を与え、六文銭の甲冑を着せ、敵を欺こうとしていた。

 信繁の影武者に関しては、「影武者を 銭の数ほど 出して見せ」という狂句が残っている。銭の数というのは、六文銭のことだろう。信繁には多くの影武者が存在したので、このような狂句が詠まれたと考えられる。

 信繁の影武者としては、御宿勘兵衛が知られている(『真田三代記』)。徳川家康は、勘兵衛と後藤又兵衛を「豊臣方の牢人で武将らしい人物」だと評価する豪傑だった。大坂の陣の開戦前、牢人だった勘兵衛は大野治長の配下に加わった。

 あるとき、信繁が死んだと称して、7人の影武者が切腹し、顔がわからないように火中に投じられた。首実検が行われた際、勘兵衛は影武者の伊藤継基の首を抱えていたという。家康は「それが本物の信繁の首ならば、勘兵衛は切腹するだろう」と述べると、勘兵衛は本当に切腹したという。

 家康は勘兵衛が腹を切ったので、本当に信繁が死んだと思い込み、豊臣方へ攻め込もうとした。しかし、信繁は生きていたので、家康は驚くのである。それは、勘兵衛が命を懸けた作戦だった。以上の話は荒唐無稽なものであり、とても史実とはみなせないだろう。

 信繁の影武者の話は、ほかにもまだある。豊臣方と徳川方が最後の戦いに臨んだとき、信繁の影武者の1人で「真田十勇士」でもあった穴山小助の逸話がある。豊臣方が敗北を喫し大坂城に退くと、家康は天王寺へ進軍した。

 すると、約300人の六文銭の旗印を掲げた真田の軍勢が、庚申堂から家康の本陣へと攻め込んできたのである。真田勢を率いる信繁は、自らも槍を取って奮戦した。しかし、次々と配下の者も討ち取られ戦況が厳しくなった。すると、信繁は太刀を口に咥え、万代ガ池に飛び込んでそ死んだという。

 死体を引き上げて調べてみると、それは信繁ではなく影武者の穴山小助の遺体だったといわれている。実は、以上の話には伏線があった。それ以前、徳川方の武将の中根隼人は、我孫子村(大阪市住吉区)で捕らえられた。

 隼人の尋問を行う際、信繁は穴山小助に「お前が私(=信繁)であると偽って取り調べよ」と命じた。小助は命令に従って、最後まで信繁のフリをして尋問を終えた。むろん、信繁の言葉には、大きな意味があった。

 取調べが終わったあと、信繁に扮した小助は「私は天命を知っている。忠臣を殺すに忍びない。戦いがはじまったら、この信繁の顔をよく覚えておいて、首を取って手柄にせよ」と述べた。こう述べると、小助は隼人を逃がした。

 おそらく隼人は、小助を信繁と思ったに違いない。先述した信繁に扮する小助が池に飛び込んで死んだというのは、小助の首実検した隼人を「信繁が死んだ」と思いこませ、さらに徳川方を欺くためだった。これも信繁の作戦であるが、事実である否かは不明である。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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