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大坂夏の陣前夜。悲壮な覚悟で戦いに臨んだ豊臣方の圧倒的に不利な状況

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂夏の陣がはじまる場面だった。徳川方は豊臣方との交渉が決裂すると、ただちに大坂に向けて軍勢を送り込んだ。一方で、迎え撃つ豊臣方は圧倒的に不利な状況にあったので、その辺りを取り上げることにしよう。

 慶長20年(1615)4月以降、徳川方は大坂に軍勢を送り込み、諸大名にも出陣を命じた。一方の豊臣方は、戦う前から敗色が濃厚だったが、もはや徳川方との交渉の余地はなかった。迫りくる徳川方を迎え撃つよりほかの選択肢はなかったのである。とはいえ、豊臣方は圧倒的に不利だった。

 すでに大坂冬の陣の和睦の条件として、大坂城の惣構は破却され、周囲の堀などは埋め尽くされて、丸裸の状態だった。かつて大坂城は優れた防御機能を誇っていたが、すっかり崩壊していたのである。

 豊臣方に集まった軍勢は、徳川方の約15万人に対して、約5万といわれている。いかに歴戦の強者の牢人衆が集まったとはいえ、質量ともに徳川方とは見劣りしていた。豊臣方が負けると考え、出陣要請に応じなかった牢人もいたであろう。

 大坂城に籠城する人々は、さらに5万人近くいたというが、彼らはまったく戦力にならなかった。というのも、彼らは戦争を恐れて城内に避難した普通の人々で、いわゆる非戦闘員に過ぎなかったのである。

 当初、豊臣方は積極的に打って出る作戦も検討したが、大坂城を基点に戦うことにした。基点とはいっても、籠城戦が不利なのは明らかなので、攻めてくる徳川方を要所で迎え撃つしかなかったのである。

 一方の徳川方は、4月25日から早くも軍事行動を開始した。藤堂高虎は淀を進発し、その日のうちに枚方(大阪府枚方市)に着陣した。井伊直孝、松平忠直、榊原康勝、本多忠朝、酒井家次の諸将も、次々と大坂城を攻めるべく河内に出陣したのである。徳川方と豊臣方との対決は、目前に迫っていた。

 大坂夏の陣の結果は、最初から徳川方の圧倒的な勝利が予測されていた。加賀の前田家では、大坂城が3日のうちに落城すると予想していた(「前田家所蔵文書」)。

 土佐の山内家では、「家康・秀忠が出陣すれば、瞬く間に合戦が終わるであろうから、夜を日についで大急ぎで大坂に駆け付けなくてはならない」とまで述べている(『山内家記録』)。

 山内氏は遅参すれば恥をかくか、処罰されるかもしれないと恐れたのだろう。戦う前から、徳川方の諸大名には、楽勝ムードが漂っていたのである。

 両軍の兵力の数や質を比較するまでもなく、徳川方の勝利は戦う前からすでに確定していた。むろん、豊臣方もそれを承知していたであろうが、今さら徳川方に和睦を提案することなどできなかったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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