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大坂夏の陣が迫る頃、丹波や摂津では豊臣方に味方すべく一揆が蜂起した。その真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
篠山城の石垣。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂夏の陣が迫る状況が詳しく描かれていた。豊臣方と徳川方の戦いが迫る頃、丹波や摂津では豊臣方に味方すべく一揆が蜂起した。ドラマでは取り上げられないだろうから、その状況を詳しく取り上げることにしよう。

 慶長20年(1615)4月、丹波において一揆勢が蜂起するとの風聞が流れていた(『寛永諸家系図伝』、『譜牒余録』)。一揆勢が豊臣方の呼び掛けに応じたのか否かは、決して定かではないが、その可能性は高いと考えられる。

 丹波亀山(京都府亀岡市)の岡部長盛・宣勝父子、丹波篠山(兵庫県丹波篠山市)の松平康重は、ただちに一揆の鎮圧を行った。丹波はかなり広い地域であるが、両大名が出陣したのだから、一揆勢の蜂起は広範に及んだ可能性がある。

 ほぼ同じ頃、摂津曽根(大阪府豊中市)でも一揆が蜂起したというが、詳細や経緯は不明である(『松井家譜』)。徳川方は、一揆の蜂起を恐れていた。

 徳川方の池田氏は大坂の陣に際して、公儀(=家康、秀忠)の命令を受けて、摂津国矢田部郡の村々から一ヵ庄(庄は村の構成単位)につき一人の人質を徴集していた(『池田家履歴略記』)。

 命じられたのは、長田村、東尻池村、西尻池村、西代(にしだい)村(いずれも兵庫県神戸市)の庄屋、年寄だった。人質を徴集した目的は、一揆を未然に防ぐためだった。

 その結果、村々の庄から1人ずつ人質が徴集され(計5人)、同年3月9日に姫路城内で預かることになった。こうして池田氏は、村人が一揆を起こさないようにしたのである。

 同年5月に豊臣家が滅亡すると、5人の人質はもと住んでいた村々に帰ることを許された。徳川方は、大坂夏の陣の開戦を予想して、早々に手を打っていたことが明らかだ。

 人質を徴集していた例は、ほかにもある。同年5月4日、幕府は山城国内の庄屋の妻子を人質とし、瀬田城(滋賀県大津市)に軟禁したという(『義演准后日記』)。

 京都所司代の板倉勝重によって、吉田村(京都市左京区)から人質が徴集された例も報告されている。人質を徴集した理由は明確に書かれていないが、彼らが豊臣方に与同し、蜂起することを防ごうとしたと考えられる。

 戦争と言えば、大名同士の戦いがメインだったが、ときに村の人々が大名の呼び掛けに応じて挙兵することがあった。特に、豊臣家の場合は牢人衆が主体だったので、そうした支援は重要な意味を持った。徳川方がその動きを警戒し、未然に防ごうとしたのは、当然のことだったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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