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大坂冬の陣の和睦交渉中、豊臣方が徳川方に仕掛けた知られざるゲリラ戦

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣の戦い後、豊臣方と徳川方との間で和睦が模索されていた。実は、いったん停戦となったものの、豊臣方は徳川方にゲリラ戦を仕掛けたので、その経緯や結果について考えることにしよう。

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣が停戦状態となり、両軍に和睦の話が持ち上がった頃、豊臣方の大野治房や配下にあった牢人衆の塙直之らだけは、徳川方に一矢を報いるべく作戦を検討していた。そのターゲットになったのは、徳川方の蜂須賀至鎮である。

 それには、もちろん理由があった。博労淵砦の戦いにおいて、大野治胤(治房の弟)は至鎮に手痛い敗北を喫していたのが理由である。直之にはプライドもあったので、この停戦期間を利用して雪辱を果たそうとしたのである。

 同年12月15日頃、至鎮の配下にあった中村重勝の部隊は、現在の大阪市中央区淡路町付近に駐屯していた。この一報を耳にした治房らは、重勝の陣営を強襲しようと考えたのである。しかし、大部隊を動かすとなると、相手にすぐ気付かれてしまう。そこで、直之ら小勢のみで、襲撃を決行することになった。

 12月17日、直之が蜂須賀氏の陣に夜襲を仕掛けるとし、蜂須賀勢は100人もの死傷者を出したという(『当代記』)。直之の率いた兵はわずか約150で、敵に気付かれぬよう、漆黒の闇の中を重勝の陣営に近づいた。

 直之勢の先鋒を務めた80の将兵は、兜に具足で防備を固めていた。残りは手負いの者が出たとき、介護にあたる要員だったという。直之の将兵は合言葉を決めて、乱戦に備えて敵と味方を区別できるようにしていた。

 一方の重勝の陣営は、豊臣方が夜討ちを仕掛けるなど微塵も考えていなかったので、眠りにつく者すらいた。夜間に警護する将兵はいたものの、餅を焼いて食べたり、談笑に興じるなど、すっかり油断していた。重勝は非常に慎重な人物で、具足すら脱がなかったが、このときばかりは気の緩みがあった。

 急襲された重勝の陣営は、たちまち大混乱となり、多くの将兵が討たれた。重勝も斬首されたのである。こうして直之の軍勢は、博労淵砦の戦いの借りを返したのである。

 この戦いで蜂須賀勢は多くの死者を出したが、被害の状況は隠されたという。しかし、後世になって編纂物などによって、敗北が広く知られるようになった。勝利した直之は、事前に準備した「夜討ちの大将塙団右衛門」と書いた小札を撒いたという。

 直之の活躍は豊臣方を勇気付けたが、完全な勝利に導くまでに至らなかった。こうした状況下において、徳川方は豊臣方に和睦を持ち掛けるべく接触を試みたのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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