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大坂冬の陣後、豊臣秀頼は和睦についてどう考えていたのか。その驚愕すべき思考

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
清涼寺。豊臣秀頼首塚と釈迦堂。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣における真田丸の攻防、大坂城への攻撃が描かれていた。その後、豊臣家は徳川家と和睦をするが、その締結をめぐって、豊臣家中は揉めたという。そのとき、豊臣秀頼はどう考えていたのか、検討することにしよう。

 大坂冬の陣後の和睦について、秀頼はどのように考えていたのだろうか。以下、『武徳編年集成』を参照しながら、考えることにしよう。秀頼は、片桐且元が方広寺鐘銘事件に際して和睦を進めたが、最終的に失敗に終わったことが気に掛かっていた。

 そのうえで、秀頼は「どうせ家康の怒りから逃れられない」と考え、「潔く大坂城に籠城し死んでも構わない」と言い出したのである。つまり、秀頼は和睦に反対したということになろう。

 秀頼の言葉を聞いた織田有楽と大野治長は大いに驚き、すぐに閨房(婦人の寝室)に赴くと、淀殿から秀頼を説得してもらおうとした。淀殿であれば、秀頼も言うことを聞くと考えたのだろう。

 淀殿は秀頼に対して「家康は年齢が70歳近くであり、死は近い。今、和睦を結ぶのを幸いとして応じ、家康がなくなってから兵を起こせば、一挙に徳川方を滅ぼせましょう」と説得した。大変な楽観主義と思えなくもないが、こうして淀殿は秀頼を説得し、ついに和睦を実現したのである。

 ちなみに、ここまで述べてきたことについては、『大坂陣日記』にほぼ同趣旨のことが記されている。当時、夫を亡くした妻が大きな発言権を持っていたのはよく知られているが、本当に淀殿が秀頼の説得に動いたのか、疑問がないわけでもない。

 ところで、『大坂陣山口休庵咄』には、真田信繁と後藤又兵衛が和睦に賛意を示した話が書かれている。両家の和睦の話が持ち上がった際、信繁と又兵衛は次のように述べたというのだ。

 この分では、大坂城が落城することはないでしょう。また、敵も撤退する様子がないので、ここは和睦を結び家康と起請文を交わしてはどうでしょうか。
 翌年には(兵を挙げて)大和国の諸城を落とし、尾張国名古屋まで城も落城させ、駿河・江戸へも攻め込む計画なので、とにかく今は和睦を結んだほうがよい。

 信繁と又兵衛は和睦という点で一致していたが、それは消極的な意味ではなく、より積極的な意味での提案だった。いったん和睦を結んで油断させて、翌年には徳川方に攻め込むという作戦である。

 つまり、一時的に休戦して力を蓄え、反転攻勢して徳川方を叩き、豊臣方を勝利に導こうとしたのである。とはいえ、あまりに話が短絡的で、事実なのか否か疑問がないわけでもない。

 秀頼は本当にヤケクソになっていたのだろうか?あるいは、信繁や又兵衛は、将来的に徳川方に戦いを仕掛けることを前提として、本当に和睦しようと考えたのだろうか。いずれにしても、豊臣家中では和睦をめぐって、賛成派と反対派が激しく争っていたのは事実のようだ。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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