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大坂冬の陣後、なぜ後藤又兵衛は徳川方との和睦に賛意を示したのか。その納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城の六番櫓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣の模様が描かれていた。その後、豊臣・徳川の両家は和睦交渉を進めるが、豊臣家では内部で大変な議論になった。しかし、後藤又兵衛は和睦に賛成したというので、その理由を考えることにしよう。

 慶長19年(1614)にはじまった大坂冬の陣では、豊臣方が最初こそ苦戦したものの、真田丸における真田信繁の活躍もあり、形勢を挽回することができた。やがて、徳川・豊臣両家では、和睦の気運が生まれた。和睦の経過については、『武徳編年集成』で確認することにしよう。

 同年12月12日、豊臣方の織田有楽と大野治長は家康の本陣のある茶臼山を訪ねると、和睦の交渉を行った。一説によると、有楽と治長は籠城が嫌になったので、和睦を進めようとしたというが、決してそんなことはないだろう。ここでも、治長や有楽を貶めようとする作為が見られる。

 12月14日、豊臣方では家臣だけでなく客将(牢人ら)を交えて、大坂城内で和睦について検討することになった。豊臣家の譜代の家臣らは、おおむね和睦に賛意を示したが、牢人を中心とした客将は和睦に反対したという。和睦を締結すれば戦争が終結し、大坂城内の牢人たちは不要になり、路頭に迷うからだろう。ただし、客将のうちでは、後藤又兵衛だけが和睦に賛成したという。その理由は、次のとおりである。

 籠城の最初から今に至るまで、大名たちが味方に応じることがなく、兵糧や弾薬がたくさん残っているといっても限りがあります。また、城中には疑わしい人物もいます。南方の織田長頼(有楽の子)の持ち場では砲撃を止めており、まれに撃つ者がいれば、これを殺害すると聞いています。そうした事情からか、徳川方の軍勢は、長頼の持ち場だけ堀際に迫っています。12月4日、前田らの軍勢が近づいたときは、城兵が一致団結して、女や子供も石を運んで防禦しました。しかし、長頼は秀頼の親戚(淀殿の従兄弟)であるにもかかわらず、風邪であると称して寝室に籠もり、女性と酒宴を催しています。また、「白吹貫(しろふきぬき)の馬印」の色をたびたび変え、志を徳川方に寄せていると考えられます。

 文中に織田長頼の持ち場では砲撃を止めているとあるが、又兵衛は長頼が徳川方と通じていると疑ったのだろう。つまり、又兵衛は、①味方につく大名がいないこと、②兵糧・弾薬はいずれ尽きること、③味方から裏切り者が出るであろうこと、を理由として和睦に賛成したのである。又兵衛は長期戦になれば、豊臣方が不利になると考えたのだろう。客観的かつ的確な判断といえる。

 豊臣勢は真田丸の攻防で徳川勢に勝利し、中には戦いの勝利を強く確信する者もあった。しかし、又兵衛のように冷静に豊臣方の分析を行い、和睦すべきと主張する者もいた。ただ、牢人衆は、戦争が終わると用済みになるので和睦に反対した。豊臣家は難しい判断を迫られたのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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