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真田信繁が築いた真田丸は、急ごしらえだったが、意外に立派な城だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
心眼寺の出丸碑。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣が開戦されると、真田信繁が真田丸を築城していた。大坂城に比べると、真田丸ははるかに小規模だが、意外に立派な城だった。いったいどんな城だったのか、考えてみることにしよう。

 信繁が築いた真田丸とは、大坂城の平野口に築いた出丸のことである。今も心眼寺(大阪市天王寺区餌差町)に真田丸の出丸城跡碑があるが、遺構はほとんど残っていない。

 真田丸は本丸と二の丸で構成されており、東西は約180メートル、土塁の高さは約9メートル、堀の深さは約6~8メートルという規模だった。意外なほど大規模だった点に注意すべきだろう。

 短期間で築城されたとはいえ、真田丸はかなりの規模の城郭であり、大坂城の前に築かれた小城というイメージは修正する必要がある。なぜ、信繁は真田丸を築いたのだろうか。信繁は、徳川方の主力部隊が大坂城の南側に陣を置くと予想したという。

 大坂城の南方は防御が弱かったので、信繁は平野口に真田丸を築いたと伝わっている。注意すべきは、数々の「屏風図」に描かれた真田丸である。それらは後世になって、観念的に描かれたもので、忠実に合戦を再現したとはいえない。

 江戸時代になると、真田丸の遺構が記録された。『大坂真田丸加賀衆挿ル様子』(永青文庫蔵)のほか、真田丸が描かれた『諸国古城之図』(広島市立中央図書館蔵)、『極秘諸国城図』(松江歴史館蔵)などは、その代表といえるだろう。

 それらの絵図を見ると、真田丸には空堀、狭間塀、土塁などが築かれ、その防御機能は決して侮れなかったという。事実、信繁は真田城を拠点として、大軍で押し寄せる徳川勢の撃退に成功した。

 ところで、真田丸と名付けられた理由はいかなるものだったのか。信繁は後代にあえて武名を残そうとして、自身の姓を冠した真田丸を築城したといわれている(『武徳編年集成』)。

 それが史実か否かは確定し難いが、実際には適当な名称がなく、信繁が築いたので単に真田丸と称したとも考えられる。一説によると、信繁自身は真田丸でなく、出丸と命名していたようだ。

 また、真田丸には後藤又兵衛が入城する予定だったというユニークな説もある。

 『大坂御陣覚書』によると、最初から後藤又兵衛が「出丸(真田丸)」には入城していたが、又兵衛は遊軍を命じられたので、代わりに信繁が「出丸(真田丸)」を受け取った。信繁が「出丸(真田丸)」に入ったので、敵も味方も「出丸(真田丸)」のことを真田丸と呼んだという。

 真田丸は謎が多く、その逸話は尽きない。いずれにしても、真田丸は急いで築城したとはいえ、意外にも防御機能に優れ、それなりの規模の城だったと考えてよいだろう。なお、真田丸の攻防は、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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