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関ヶ原合戦後、徳川家康は「豊臣包囲網」を形成し、豊臣秀頼を封じ込めようとした

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と豊臣秀頼とのやり取りが描かれていた。関ヶ原合戦後、徳川家康は「豊臣包囲網」を形成し、豊臣秀頼を封じ込めようとしたので、その辺りを探ることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦後、豊臣恩顧の池田輝政は、家康に急接近した。そもそも輝政は、関ヶ原合戦で東軍の先鋒を務め、大いに軍功を挙げていた。慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍に就任すると、輝政は少将に昇進した。

 慶長14年(1609)に西国で大型船の使用が禁止されるが、対象から輝政は除外された。輝政は、特別扱いされたのだ。慶長17年(1612)、輝政は家康から松平姓を授与されたのだから、厚遇されたのは明らかである。輝政は家康派の有力な外様大名として、以後も重きを置かれたのである。

 その他の大名では、近江膳所(滋賀県大津市)に移された戸田一西(かずあき)は、三河出身の家康譜代の家臣である。同佐和山(同彦根市)に配置された井伊直政は「井伊の赤備え」で知られ、家康の重臣だった。

 同長浜(同長浜市)に移封された内藤信成は、家康の異母弟にあたり、早くから家臣として従っていた。彼らは東国と西国の境目の近江東部、あるいは京都の入口にあたる近江西部に配置された。

 家康は有力な外様大名や譜代の家臣を西国に配置することで、着々と西国方面に豊臣方の包囲網を形成したのである。その後も家康は、西国方面に大坂の豊臣家を意識した大名配置を行った。

 家康は息のかかった大名を積極的に西国方面に配置することで、大坂城の秀頼を牽制したのである。たとえば、松平定勝は京都伏見城代、岡部長盛は丹波亀山(京都府亀岡市)、松平忠明は伊勢亀山(三重県亀山市)にそれぞれ配置された。

 定勝は家康の異父弟で、家康譜代の家臣だった。忠明は奥平信昌の四男だったが、のちに家康の養子になった。その後、秀忠から「忠」の字を拝領し、忠明と名乗った。

 定勝も忠明も、松平姓を名乗る有力な家臣である長盛は外様大名だったが、小牧・長久手の戦い以来、家康に仕えていた信頼の厚い人物だった。

 家康は有力大名を西国の要所に配置すると、丹波亀山城(京都府亀岡市)などを天下普請で修築した。天下普請には、築城の名手で家康の信頼が厚い藤堂高虎が関わった。高虎もまた、家康の昵懇の関係にあった。

 慶長15年(1610)に名古屋城の築城が天下普請で開始されると、西国・中部方面の大名が動員され、史上最大規模となった。家康が西国方面へ新たに大名を配置したり、城郭の新改築をしたりしたことは、豊臣方にとって大きな脅威となったのである。

 家康は、即座に豊臣家を滅亡に追い込むことなく、むしろ温存の方向に動いた。孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたのだから、それは当たり前のことだろう。

 しかし、家康は豊臣家を牽制することによって、その権威や威勢を削ごうとしたのは事実である。こうして徳川家は、着々と幕府の権力基盤を固めたのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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