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豊臣秀頼と千姫の結婚には、徳川家康の特別な思いと意味があった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
嵯峨釈迦堂の豊臣秀頼首塚。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」は、豊臣秀頼と千姫の結婚の模様が描かれていた。2人の結婚は政略であり、徳川家康の特別な思いと意味があったので、この点について考えてみよう。

 慶長2年(1597)、千姫は伏見城(京都市伏見区)で誕生した。父は徳川秀忠、母は崇源院である。翌年8月、長らく病床にあった豊臣秀吉が没した。

 死の間際にあった秀吉は、子の秀頼の行く末を案じており、五大老筆頭の家康を頼ろうとした。そのもっとも効果的な方法として、秀吉は家康に対し、秀頼と千姫との結婚を要望したのである。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、東軍を率いる家康が西軍に勝利した。豊臣家は別に西軍に属して負けたわけではないが、家康の威勢は大いに高まった。

 とはいえ、家康にはすぐに豊臣家を滅ぼそうとの気持ちはなく、逆に豊臣家との関係を深めたいと思っていた。秀吉の遺命もあったので、家康は秀頼と千姫との結婚を進めたのである。

 同じ頃、家康は諸大名や配下の有力な家臣とも婚姻を通し、姻戚関係を結んでいた。家康は「血の結束」を活用し、権力基盤を強固にしたのだ。

 秀頼と千姫(秀忠の娘)との結婚もその一つに過ぎなかった。家康は征夷大将軍になったとき、秀頼を懐柔して反抗できないようにしたかったのだろう。

 慶長8年(1603)7月、千姫は母の崇源院や大久保忠隣に伴われ、秀頼との婚姻に臨むため伏見城から大坂城に入輿した。当時、秀頼が11才、千姫が7才と幼かったため、この時点では婚約という段階だった。長じて、2人は正式な夫婦なったのだろう。

 伏見から大坂への路次は厳重に警護され、黒田長政が300の兵を率いて警護した(『家忠日記増補』)。千姫が大坂城に到着すると、豊臣家は畳を白綾で覆って準備していたが、家康が美麗を好まないとの理由で取り止めになった(『家忠日記増補』)。

 豊臣家が千姫を厚くもてなすことは当初から決まっていたので、意外な申し出だったに違いない。家康が美麗を避けたのは、互いに対等な関係であることを示そうとしたのだろうか。

 千姫は秀頼と結ばれたが、これは不幸のはじまりでもあった。家康は豊臣家と友好関係を築こうとしたが、徐々に権力への志向が強くなった。

 逆に、豊臣家の方でも、家康の存在を危険視する動きが見られるようになる。こうして勃発したのが大坂の陣であるが、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』(角川学芸出版、2012年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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