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関ヶ原合戦後、増田長盛は生き延びたが、大坂夏の陣で自害して果てた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
郡山城跡の大手向櫓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で西軍が東軍に敗北を喫し、戦いは幕を閉じた。戦後、五奉行のひとり増田長盛は厳しい処分を免れ、その後も生き延びた。長盛の戦後について考えてみよう。

 長盛は慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原本戦には出陣せず、大坂城に駐留していた。西軍が敗北すると、藤堂高虎らが長盛の居城・郡山城(奈良県大和郡山市)に攻め込み、たちまち落城させた(『中臣祐範記』など)。

 『関原始末記』によると、9月25日に徳川家康は長盛の所領を没収したうえで罪を許し、高野山(和歌山県高野町)への蟄居を命じたという。

 『当代記』には、長盛が高野山に向かうに際して、金1900枚、銀5000枚を差し出したという。多額の金銭を差し出すことが、長盛の罪を減じる条件だったのかもしれない。翌慶長6年(1601)、家康は宅間忠次を郡山城へ遣わし、武具や家財を没収させたのである。

 2年後に高野山を出た長盛は、武蔵岩槻(さいたま市岩槻区)の高力清長に預けられた。罪を許されたとはいえ、長盛は清長の監視下に置かれたのである。残念ながら、その間における長盛の動向は関係史料が乏しく、ほとんどわからない。

 しかし、慶長19年(1614)10月に大坂冬の陣が開始され、徳川方と豊臣方が戦うことになった。この戦いで、長盛とその子・盛次が表舞台に出ることになった。

 盛次は父が処分されたにもかかわらず、家康に召し抱えられ、のちに尾張藩主の徳川義直に仕えた。大坂冬の陣がはじまると、盛次は最初こそ徳川方に属して出陣し、大いに軍功を挙げたといわれている。

 しかし、増田氏は豊臣恩顧の大名だったので、心は豊臣家にあった。そこで、盛次は父の長盛と相談し、義直の了解を得たうえで、豊臣方に与することになったという。ところが、この判断は誤りだった。

 慶長20年(1615)4月に大坂夏の陣が勃発すると、盛次は豊臣方として長宗我部盛親とともに出陣し、同年5月6日に萱振(大阪府八尾市)に陣を置いた。盛次らの軍勢は藤堂高虎の軍勢と戦いに及んだが、盛次は磯野行尚によって討ち取られたのである。

 その後、豊臣方は劣勢を挽回することができず、ついに秀頼と母の淀殿は大坂城で自害した。こうして豊臣家は滅亡し、家康の大勝利に終わったのだ。

 戦後、長盛は盛次を大坂方へ引き入れた罪を問われ、同年5月27日に岩槻で自害して果てたのである(『大坂御陣覚書』など)。もし、親子ともども徳川方に止まっていたら、一族は続いていたのかもしれない。

主要参考文献

渡邊大門『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』(柏書房、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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