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関ヶ原合戦で東軍を勝利に導いた井伊直政は、本当に抜け駆けをしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
彦根駅前の井伊直政公。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、西軍が関ヶ原合戦で東軍に敗北したことで終結した。東軍を勝利に導いたのは井伊直政であるが、それは抜け駆けによるものだったという。それが事実なのか、考えてみることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日の早朝、いよいよ関ヶ原合戦がはじまると、井伊直政と松平忠吉は軍令違反とされる抜け駆けを行ったという。当時、手柄に応じて恩賞が配分されたので、誰もがいち早く敵陣に攻め込んで軍功を挙げようと考えた。

 家康は関ヶ原の戦いに際して軍法を定め、抜け駆けを禁止していた。抜け駆けを認めると秩序が乱れ、それぞれが勝手な行動をすると敗北することもあったので、禁止したのである。

 直政は家康に「今日の合戦で抜け駆けをしたことについて、ほかの諸将は腹を立てているでしょうか」と尋ねると、家康は上機嫌で「直政の行動(抜け駆け)は今に始まったことではない」と述べたというが(『寛政重修諸家譜』)、これは単なる逸話に過ぎない。以下、直政の抜け駆けの模様を確認しておこう。

 合戦の直前、井伊軍が前に出ようとしたので、正則は「今日の先陣は私が承った」と述べ、これを制止しようとした。すると、直政は角(隅)取紙を振りかざすと、忠吉とともに敵陣に攻め込んだ。兵卒らもそれに続いて攻め込み、正則の部隊もあとから攻め込んだという(『井伊家慶長記』)。

 ところが、『家忠日記増補追加』には、直政は斥候つまり偵察だと強弁して、忠吉とともに抜け駆けをしたとある。しかし、たった2人で敵陣に突撃する行為は危険を伴うので、素直に首肯できない。

 慶長5年(1600)8月4日に家康が諸大名に発した書状によると、「今度、先勢として井伊直政を遣わせたので、作戦についてはよく直政と相談し、どのようなことも直政の指図次第になるので、それが本来の望みである」と書かれている(「相州文書」など)。

 つまり、関ヶ原合戦で家康の名代を務めたのは直政だったので、その指示に従うよう明言されていたのである。直政に指揮権が委任されていれば、抜け駆けをする必要はない。

 もう一つ重要なことは、直政自身も同年7月15日に軍法を定め、その2条目で抜け駆けを禁止していたことだ(「中村不能斎採集文書」)。大将の代行だった直政自身が、抜け駆けの禁を率先して破るとは考えにくい。

 直政は家康から戦闘の指示全般を任されていたので、正則に先鋒を譲ってほしいと申し出たのではないか。つまり、直政と忠吉が先陣を切ることは、正則もあらかじめ了解済だったと考えられるということだ。

 後世の編纂物は、直政や忠吉の武勇を強調するため、2人が抜け駆けの禁を冒してまでして敵陣に突撃し、大活躍した姿を描こうとしたのではないか。それは、家康の四男・忠吉の初陣を華々しく演出する目的もあった。

 しかし、実際には戦闘の指揮が直政に任せられていたので、正則に先鋒を譲るようあらかじめ要請した可能性が高い。結論としては、直政の抜け駆けはなかったといえよう。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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