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関ヶ原合戦後、無念の死を遂げた石田三成の逸話の数々を検証する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で徳川家康が率いる東軍が勝利し、石田三成らが率いる西軍は敗北した。その後、捕らえられた三成については、死に際しての逸話が事欠かない。それらを取り上げることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日、徳川家康は石田三成らが率いる西軍に勝利した。敗北した三成は、そのまま戦場から離脱して逃亡した。9月24日、捕らえられた三成は、家康が陣を置く大津(滋賀県大津市)に連行された。

 家康は三成を手厚くもてなしたが、一方で三成は小早川秀秋に対して「人を欺いて裏切ったのは武将の恥。末代まで語り継いで笑うであろう」と述べた(『常山紀談』)。ほかにも、三成にまつわる逸話は事欠かない。

 捕縛された三成は、京都市中を引き回された挙句、10月1日に六条河原で斬首された。処刑の直前、三成は喉の渇きを癒すために干し柿を与えられた。

 しかし、三成は「痰の毒」(喉に悪い)であるとして、ついに食べなかった(『茗話記』)。三成の意地である。この逸話は、三成が死に際しても、天下への志を失わなかったことを意味している。

 こうして三成は、処刑された。享年41。三成の逸話はこれだけではないので、もう少し確認してみよう。三成の捕縛を命じられたのは、田中吉政である。実は、吉政と三成は同郷だった。

 三成の捕縛状況については、信頼できる一次史料に明確に記されているわけではない。やや信頼度に欠ける二次史料に依拠することになるので、その点をあらかじめお断りしておきたい。

 吉政に捕らえられた三成は「戦いに負けたことは言語道断、無念である。とはいうものの太閤(=秀吉)への恩と思えば、今は後悔することもない。また、今日まで身から離さず秘蔵した脇差は、先年太閤(=秀吉)から賜った切刃貞宗という珍しいものである」と述べた。「切刃貞宗」は「石田貞宗」と名付けられ、現在は東京国立博物館に所蔵されている。

 『常山紀談』によると、吉政は三成に対して「数十万の軍勢を率いたことは、智謀の優れたことと言えましょう。合戦の勝敗は天命にあるので、力が及びがたいことです」と慰める言葉をかけ、三成が所望した韮雑炊をふるまった。この間、2人は昔に戻って、親しく会話を交わしたという。心和むような2人の友情を読み取ることができよう。

 三成の最期には、さまざまな逸話があるものの、いずれも信が置けないというのが正直なところである。三成が天下人となった家康に果敢にも兵を挙げたことを称え、美談として伝わったものにすぎないと考えられる。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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