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徳川秀忠は、なぜ真田昌幸が籠る上田城の攻略に失敗したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川秀忠。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川秀忠が真田昌幸が籠る上田城を攻撃していた。しかし、秀忠は上田城を落とすことができないばかりか、関ヶ原合戦の本戦に間に合わなかった。なぜ、秀忠は上田城攻略に失敗したのか、考えることにしよう。

 約3万4千の軍勢を率いた秀忠は、慶長5年(1600)9月2日に小諸(長野県小諸市)に到着すると、秀忠は昌幸に使者を遣わし、東軍に与するように勧告した。

 使者として説得に派遣されたのは、真田信幸と本多忠政だった。あらかじめ信幸は、秀忠に対して、西軍に与した昌幸・信繁父子の助命嘆願をしたといわれている。

 ところが、昌幸は返事を先延ばしにし、籠城の準備を整えるための時間稼ぎを行った。9月4日以降、昌幸は降伏に際してのさまざまな要求を行い、秀忠を挑発した。秀忠は要求に応じることなく、信幸の要請で考慮していた、昌幸・信繁父子の助命を撤回したのである。

 その翌日、秀忠は昌幸方の城砦を攻撃したので、昌幸は支城の砥石城(長野県上田市)の城兵を引き揚げさせるなどした。以後も両軍の小競り合いが続いたものの、昌幸の戦いぶりは実に巧妙だった。

 秀忠が本格的に上田城を攻撃したのは、9月6日のことである。戦いの様相はおおむね二次史料によるしかないが、以下、昌幸の戦いぶりを取り上げておこう。

 秀忠軍が上田城下で刈田(生育中の作物を刈り取ること)を行うと、真田軍は城外へ出て応戦し、徳川軍に攻撃されるとすぐに城内に逃げだした。しかし、それは昌幸の作戦だった。

 徳川軍が真田軍を追尾して大手門へ近づくと、上田城内の鉄砲隊が一斉射撃をして徳川軍を蹴散らした。このような奇策によって、寡兵の真田軍は大軍の徳川軍を相手にして、一歩も引けをとらなかったといわれている。昌幸の面目躍如たるところであり、秀忠が上田城の攻略に失敗した理由になろう。

 9月8日、秀忠は家康より上洛を命じられたので、上田城攻撃を断念し、押さえの兵を残して西へと急いだが、これが結果的にうまくいかなかった。

 9月6日の時点で、家康は福島正則に書状を送り、秀忠は9月10日頃に赤坂に到着すると伝えていた(「福島文書」)。ところが、家康が派遣した使者の到着は、大雨によって遅れていたので、実際に秀忠が小諸を出発したのは9月11日だった。

 秀忠は戦いによる遅延に加え、道中の悪天候が災いし、思うように進軍できなかった。当時の道幅は2~3間(約3.6~5.4m)で舗装されておらず、道は雨でぬかるんでいた。

 秀忠は9月17日に妻籠(長野県南木曽町)に到着し、そこで東軍の戦勝を知ったという。結局、関ヶ原合戦の本戦に間に合わなかったのである。秀忠が家康に叱責された件は、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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