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毛利輝元と増田長盛は、石田三成の不穏な動きを徳川家康の家臣に報じていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
毛利輝元像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成が徳川家康に兵を挙げる決断をした。ところで、毛利輝元と増田長盛は、先んじて石田三成の不穏な動きを徳川家康の家臣に報じていたので、その辺りを紹介しておこう。

 慶長4年(1599)閏3月の七将による石田三成訴訟事件後、三成は家康の裁定により政界から退き、佐和山城(滋賀県彦根市)に隠退したのである。

 しかし、三成はその後も家康と良好な関係を保ち、子の重家の出仕を認められた。別に、石田家が滅亡したわけではないのだが、隠退後の三成の動きは不明である。

 三成の隠退後、父の正継が領内の支配を行っていた。三成が発した文書は、慶長4年(1599)10月18日付のわずか1通にすぎない(「下郷共済会所蔵文書」)。

 その内容は長浜船方中に対して、佐和山まで炭を運ぶように命じたものである。ようやく三成の動静が明らかになるのは、慶長5年(1600)7月以降である。

 慶長5年(1600)7月12日、増田長盛は永井直勝(家康の家臣)に対し、垂井(岐阜県垂井町)で病気になった大谷吉継が滞在していること、石田三成が出陣するとの噂があることを報告した(『板坂卜齋覚書』所収文書)。

 「内府ちかいの条々」が発せられる5日前から、すでに三成が挙兵するという噂が流れていた。永井直勝は家康の側近であり、非常に信頼されていた人物である。

 この話が虚説でないことは、『時慶卿記』と『義演准后日記』の同年7月13日条の記事で確認できる。噂として、人々が共有していたのだ。

 なぜ五奉行の増田長盛が家康の側近に対して、わざわざ三成の不穏な動きを知らせたのだろうか。その理由は不明である。この直後、長盛は三成らとともに、家康に対して挙兵する。

 同年7月13日、宍戸元次、熊谷元直、益田元祥(以上、毛利輝元の家臣)が連署し、榊原康政、本多正信、永井直勝(以上、家康の家臣)に書状を送った(「吉川家文書」)。

 その内容は、安国寺恵瓊が出陣して近江まで進み、吉継や三成と不穏な動きをしていることを報告したものである。これでは、西軍の動きが筒抜けであるが、輝元は直後に三成らとともに挙兵した。

 この書状で重要なことは、「輝元は三成らの不穏な動きを承知していない」と述べたことだ。毛利氏は彼らの動きを報告しつつも、自分は知らないと言っているのだ。

 輝元が三成らの動きに関与していないという事実は、7月14日付の吉川広家書状(榊原康政宛)にも書かれている(「吉川家文書」)。これが正直に報告したことなのか、相手に揺さぶりを掛けるための情報戦なのか不明である。

 家康は三成らの不穏な動きを知ったはずだが、西軍決起に三奉行や毛利輝元などが関与していないと安心したのだろうか。あるいは、吉継や三成の挙兵など、問題にならないと考えていたのであろうか。

 家康が三成らの不穏な動きに対して、積極的に対処した事実は確認することができない。ともあれ、家康は会津に出発したのだから、虚説と思ったのかもしれない。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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