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石田三成が徳川家康に挙兵する計画は、盟友の真田昌幸も知らなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原の戦いという山場を迎えた。石田三成は宇多氏を通して真田昌幸と姻戚関係にあったが、あらかじめ徳川家康に挙兵する計画を打ち明けていなかったという。その点について考えることにしよう。

 かねて石田三成は上杉家と事前に盟約を結んだうえで、徳川家康に挙兵したといわれてきた(事前盟約説)。しかし、事前盟約説が成立しないことは、宮本義己氏によって明らかにされた。

 同時に、三成は姻戚関係にある昌幸を通して、上杉家と連絡を取ろうとしたが、昌幸に挙兵の計画を打ち明けていなかったことも指摘された。

 事前盟約説が成り立たないことは、次に示す(慶長5年)7月晦日付石田三成書状(真田昌幸宛)の内容から明らかである(「真田家文書」)。

 私(三成)からの3人の使者を遣わしました。うち1人は貴老(昌幸)が返事を書き次第、案内者を添えて私の方に下してください。

 残りの2人は、会津(景勝・兼続)への書状とともに遣わしているので、貴老の方から確かな人物を添えて、沼田(群馬県沼田市)を越えて会津に向わせてください。

 貴老(昌幸)のところに返事を持って帰ってきたら、案内者を1人添えて、三成まで遣わしてください。

 この書状によると、三成が昌幸を仲介して上杉景勝のもとに使者を派遣していたことが判明する。史料中の案内者とは、土地の事情に詳しい、道案内ができる者という意味である。

 宮本義己氏の指摘によると、三成はこれより以前に景勝との交渉ルートがなかったと推測され、姻戚関係にあった昌幸を通して、景勝との交渉を進めようとしたという。

 書状から明らかなように、三成は景勝への交渉ルートを持っていなかったので、昌幸を介して連絡をしようとしていた。それゆえ、事前盟約説が成り立つはずがない。

 また、書状の冒頭部分を省略したが、三成は家康に挙兵する計画を昌幸に対して、事前に知らせていなかったことを詫びている。つまり、三成は昌幸とは相婿の関係だったが、これから家康に兵を挙げることを知らせていなかったのである。

 慶長5年(1600)7月18日、三成らは「内府ちかひの条々」を発して、家康に挙兵した。ある程度の準備を進めていただろうが、その期間は短かったのではないだろうか。

 挙兵後、三成は家康に敵対する景勝と連絡を取り、協力を呼び掛けようとした。それが、先に取り上げた書状である。お粗末なことに、三成は盟友の昌幸にさえ、挙兵の計画を事前に打ち明けていなかったのである。

 結局、西軍は東軍の家康に敗北を喫したが、周到な準備ができていなかったように思える。その結果、小早川秀秋、毛利輝元、脇坂安治らの裏切りに遭ったということになろう。負けて当然だったのではないだろうか。

主要参考文献

宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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