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豊臣秀吉が幼い頃の石田三成と出会い、その場ですぐに才覚を認めたのは事実なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉銅像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の最後の紀行潤礼では、石田三成と豊臣秀吉の出会いについて触れられていた。三成は秀吉にちゃんを献じたとき、その才覚を認められたというが、それが事実なのか考えてみよう。

 石田三成は、いつどこで豊臣秀吉と初めて出会ったのだろうか。その事実については、有名な「三献の茶」のエピソードが知られている。出典は、江戸時代に成立した『志士清談』、『名将言行録』、『武将感状記』である。次に、『武将感状記』を現代語訳して挙げておこう。

 石田三成は、ある寺の小僧だった。秀吉は一日放鷹に出て、喉が渇いた。秀吉は三成がいる寺に着いて、「誰かいないか。茶を点てて持って来てくれないか」と頼んだ。

 すると、三成が大きな茶碗に七・八分目にぬるい茶を点ててきたので、秀吉はこれを飲むと、「これはうまい。もう一杯」と所望した。

 また、三成は茶を点ててきたが、今度は前よりも少し熱くして茶碗の半分より少な目だった。秀吉はこれを飲むと、試しに「もう一杯」と所望した。

 三成は、小さな茶碗に少し熱く茶を点てた。秀吉はこれを飲むと、三成の心遣いに感じ入った。

 そこで、寺の住職に頼み込んで、「三成には才覚があるので、少しずつ取り立てて奉行職を授けたい」と言ったという。

 「三献の茶」はあまりに有名な逸話であるが、史実とみなすにはたしかな史料の裏付けがない。したがって、この話は三成が幼い頃から才覚があったこと、秀吉がそれを鋭く見抜いて登用したという、単なる創作に過ぎないだろう。あまりに話しでき過ぎなのである。

 2人が出会った寺については、はっきりと寺の名が書かれているわけではない。その候補としては、大原観音寺(滋賀県米原市)と法華寺三殊院(滋賀県長浜市)の2つがある。

 法華寺三殊院は三成の母の故郷であり、三成が幼い頃に手習いを受けたという伝承が残っている(『近江與地志略』)。しかし、「三献の茶」は創作なのだから、詮索しても意味がないだろう

 少年期の三成に関する史料は皆無であり、寺の小僧だったのかわからない。三成がたしかな史料に登場するのは、天正10年(1582)以降のことである。それは、織田信長が亡くなり、秀吉が台頭した時期と重なっていた。

 三成の才覚を取り上げた「三献の茶」は創作であるが、その行政手腕は実際には高かったに違いない。三成は秀吉のもとで、太閤検地を差配するなどし、優れた手腕を発揮した。そうした高い能力が秀吉に認められ、五奉行の1人に加えられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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