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京都所司代で五奉行の前田玄以は、もともと僧侶だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
比叡山延暦寺法華総持院東塔。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、五奉行のメンバーが顔を揃えた。そのうちの京都所司代で五奉行の前田玄以は、もともと僧侶だったといわれているが、その前半生を考えてみることにしよう。

 前田玄以は、天文8年(1539)に美濃国に生まれたという(『寛政重修諸家譜』)。玄以は織田信忠(信長の嫡男)に仕え、7千石を知行した。

 その先祖は斎藤彦九郎季基で、美濃国安八郡前田(岐阜県神戸町)に住んだことから、前田を姓にしたという。なお、玄以の初名は、孫十郎基勝だったと記している。

 新井白石の『藩翰譜』には、前田氏の祖は斎藤伊予入道玄基といい、もともと玄以は山法師(比叡山の僧侶)だったが、やがて信忠に仕えたと記す。

 『名将言行録』は、玄以の初名を孫十郎基勝とし、のちに信忠に仕えたと記す。玄以は尾張国小松原寺(愛知県小牧市)の住職を務め、秀吉の身分が低かった頃から懇意だったという。

 あるとき秀吉は玄以に対し、「貴僧は何の望みがあるのか」と尋ねると、玄以は京都の所司代になるのが望みだと答えた。その理由は、京都の住人は横柄なことが憎かったからだったという。

 玄以の人となりは、智慮が深く、色欲がなかった。大礼に通じ、しいて細事を勤めなかった。内外の学術に通じており、歌道をよく知る教養人だったと伝わっている。

 のちに玄以は、当初からの望みのとおり、京都所司代になった。ただし、ここまで根拠として史料は後世に成ったもので、あまり良質ではないという問題がある。

 玄以の生誕地については、玄以と懇意だった僧侶の南化玄興の存在が注目される。南化玄興は玄以について、「京都で名を上げるため、美濃国から出てきた」と述べている(『南化玄興起龕法語』)。

 法語は個人を誉めすぎたり、あるいは事蹟を誇張する傾向があるのは確かであるが、出身地については問題ないように思える。また、近年の研究によると、玄以のことを徳善院と呼ぶのが正しいことを補足しておこう(以下、「玄以」で統一)。

 前田玄以肖像画(妙心寺所蔵)には南化玄興の賛があり、「弓矢を抛って、疎服を身に着けた」との記述がある。これを素直に読むならば、武士身分から僧侶に転じたと解釈することができる。

 玄以は比叡山(滋賀県大津市)の僧侶だったという説があったが、『聞耳集』には禅僧だったと書かれている。玄以は禅僧だったので、京都の伝統勢力の扱いに心得があったとの指摘がある。たしかに、京都五山などの禅宗寺院は、京都支配を行ううえで重要だった。

 一方で、玄以の肖像画の服装は、比叡山の僧のものだとの指摘がある。この指摘については『南化玄興起龕法語』などにより、玄以は儒学・仏教に造詣が深く、また文武に通じているものの、正式な意味での僧ではなかったとの指摘もある。

 法印や僧正という位は、出家した武将に授けられることもあるので、さほど深く考える必要がないのかもしれない。

 いずれにしても、玄以の出自や前半生には謎が尽きない。ただし、玄以には行政手腕があったので、秀吉に京都所司代を命じられ、のちに五奉行に加えられたのは事実であろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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