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豊臣秀吉にかわいがられていたのに、徳川家康に味方した3人の戦国武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣恩顧と称される武将が登場していた。彼らは豊臣秀吉にかわいがられて出世したが、なかには徳川家康に味方した者もいた。そのうち3人について、紹介することにしよう。

1.浅野長政(1547~1611)

 長政の生誕地は、尾張国春日井郡北野(愛知県北名古屋市)といわれている。長政は浅野長勝の養女の「やや」と結婚し、浅野家の家督を継いだ。

 長勝にはもう一人の養女「おね」がおり、のちに豊臣秀吉の妻となった。長政は秀吉と相婿の関係にあったので、のちに登用されたということになろう。

 慶長4年(1599)、長政は家康を暗殺する計画を立てたので、家督を子の幸長に譲って引退した。しかし、長政は家康と昵懇であり、三成との関係は必ずしも良くなかった。

 関ヶ原合戦がはじまると、長政は家康に与して戦ったが、そこには三成との良くない関係が影響していたと考えられる。長政と家康は、碁の仲間だったという説すらある。

2.加藤清正(1562~1611)

 清正の生誕地は、尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)といわれており、豊臣秀吉とは同郷だった。しかも、清正の母は、秀吉の母(大政所)の従姉妹(縁戚という説も)だったという。

 天正元年(1573)に秀吉が長浜城(滋賀県長浜市)主になると、清正は小姓として仕えた。清正が「秀吉の子飼い」と称される所以である。

 清正は秀吉に従って各地を転戦し、関ヶ原合戦前には肥後北半国19万5千石を支配するようになった。残り半分を支配していたのは、小西行長だった。

 しかし、文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した清正は、石田三成や小西行長と仲違いし、恨むようになった。そのような事情があったので、三成らに加担することなく、家康派として行動したのである。

3.福島正則(1561~1624)

 正則の生誕地は、尾張国春日井郡清洲村(愛知県清須市)といわれている。正則の母は、秀吉の母(大政所)の妹だった。それゆえ後年、正則は秀吉の小姓として仕えるようになった。

 特に、正則は賤ヶ岳の戦いで大いに軍功を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」の人に数えられた。関ヶ原合戦の前には、尾張清洲に24万石を与えられた。

 ところが、文禄・慶長の役の際、正則は石田三成と行動をともにしたが、その関係は険悪となった。三成の讒言などが問題視されたのだろう。

 秀吉の没後、正則は子の正之と家康の養女の満天姫との縁組を進めたが、そこには三成との関係があったと考えられる。七将が三成の訴訟にという事件が勃発するが、正則はその急先鋒だった。

 3人の武将が秀吉から取り立てられ、出世したのは紛れもない事実である。しかし、彼らが家の存続を図るためには、秀吉の旧恩にしがみつくわけにはいかなかった。

 ある意味で裏切り行為なのかもしれないが、この時代の類例は事欠かないようにも思える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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