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関ヶ原合戦の直前、徳川家康と石田三成は特に深刻なまでに対立していなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成が徳川家康に怒りをあらわにするシーンがあった。関ヶ原合戦といえば、誰もが思い浮かべるのが、三成と家康との深刻な対立である。果たして、それは事実だったのか考えることにしよう。

 慶長4年(1599)閏3月に七将による石田三成訴訟事件が勃発すると、家康の裁定により、三成は佐和山(滋賀県彦根市)に引退を余儀なくされた。この事件によって、三成はさらに家康に恨みを募らせ、西軍決起の機会をうかがっていたことはお決まりの通説だった。

 ところが、その後の三成と家康との関係を見ると、必ずしも両者の関係は悪くなかったようなので、その点を確認することにしよう。

 同年9月7日、家康は重陽の節句で豊臣秀頼に祝詞を述べるため、伏見から大坂へと向かった。大坂に到着後、家康が宿所としたのは、驚くべきことに三成の邸宅だった。同月12日、家康は三成の兄・正澄の邸宅に移った(以上『鹿苑日録』)。

 その後、大坂城西の丸に移った家康は、家臣の平岩親吉を正澄邸に入れ置いた。三成と正澄は家康に宿所を提供したのだから、両者の関係が悪化していたとは考えられないだろう。

 その直後、前田利長による家康暗殺計画が露見した際、家康は利長の上洛を阻止するため軍勢を派遣した。実は、このときの三成の動きには、誠に興味深いものがある。

 家康暗殺計画に際しての三成の動向は、慶長4年(1599)9月21日付の島津惟新(義弘)書状(島津忠恒宛)に詳しく記されている(「旧記雑録後編三」)。

 その中でもっとも注目すべきことは、大谷吉継の子の吉治と三成の内衆1千騎が越前方面に向かっていることである。水野伍貴氏が指摘するように、家康と三成が敵対していたとするならば、敢えて三成の兵を用いることはないだろう。

 それだけではない。三成の佐和山引退後の慶長4年(1599)閏3月、家康は三成の嫡男の重家を迎え入れた(「浅野家文書」)。その様子について毛利輝元は、三成が佐和山へ引き退く一方、子の重家は秀頼に奉公するため大坂にやって来たことを、叔父の元康に報告している(「厚狭毛利家文書」)。

 家康はことさら三成を排除しようとしたのではなく、むしろ代わりに子の重家を登用することにより、豊臣政権の安定化を図ったと考えられる。つまり、石田家そのものは、改易されたわけではなかったのだ。

 これまで、豊臣政権を守り抜こうとした三成は、家康を蛇蝎のように嫌い、打倒することを目的にしていたように思われていた。しかし、それは小説、映画、テレビドラマの世界の話で、少なくとも表面上は、両者の確執が見られないようだ。

主要参考文献

水野伍貴「佐和山引退後における石田三成の動向について」(『政治経済史学』530号、2010年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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