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大河ドラマで放映できなかった、豊臣秀次とその一族が皆殺しにされた話

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
瑞泉寺 豊臣秀次一族の菩提寺。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀次が養父の秀吉から切腹を命じられる場面がスルーされていた。文禄4年(1595)7月15日、関白だった秀次は高野山(和歌山県高野町)で自害し、その一族も惨殺された。その経過を確認することにしよう。

 文禄4年(1595)7月15日、福島正則が高野山に蟄居する秀次のもとを訪れ、秀吉から自害の命が下ったことを知らせた。秀次以下、疑いをかけられた小姓などは、高野山で自害を命じられた。

 ところが、死後の秀次には、あまりに残酷な措置が取られた。秀次の配下の者たちの遺骸は、そのまま青厳寺(金剛峰寺)に葬られたが、秀次の首は罪人が晒される三条河原に送られたのである。

 これまで後継者として処遇された秀次に対して、あまりに酷い仕打ちだった。そして、秀次が切腹に追い込まれたことは、さらに家族へと累が及んだのである。

 同年8月2日、秀次の妻子が処刑された。その方法なりを見ると、秀吉の残虐性を確認することができる。当日の朝、石田三成ら秀吉配下の武将が3千人の兵を率い、三条河原へやってきた。四方に堀を掘って鹿垣を築き、秀次の首を西向きに据え置くと、その妻子たちに拝ませたのである。

 これまで秀次の妻子として、彼女らは何不自由ない生活を送っていたであろう。しかし、秀次が罪人として処分されたことにより、非情ともいうべき過酷な運命が待ち構えていたのである。

 秀次の側室の数は諸書によって異なるが、おおむね20人から30人だったと考えられる。息女に至っては、まだ13歳の少女だった。秀次の妻女は、すべて惨殺されたのである。

 その処刑シーンは書くことが憚られるほどの惨状であり、見る者が目を背ける光景だったという。しかし、処刑に立ち会った石田三成らは、嘆き悲しむ素振りすら見せなかったと伝える。

 秀次やその家族を抹殺したあとの秀吉の行動は、かなり異常なものだった。秀次の首とその妻子は、手厚く葬られることなく、そのまま三条河原に埋められた。その埋葬場所は、秀次が生前に行った所業(事実かどうかは別として)にちなんで「畜生塚」と呼ばれた。

 これまで秀吉は、秀次をかわいがっていたにもかかわらず、あまりにむごい仕打ちである。慶長16年(1611)に角倉了以が瑞泉寺を開き、手厚く秀次の菩提を弔うまで、何ら顧みられることがなかった。

 さらに、秀吉は秀次が長らく居住していた聚楽第を破壊し、その痕跡すら残さないように措置したのである。

 一の台の父の菊亭晴季は辛うじて処刑こそ逃れたもの、越後国に流罪となり失脚した。死は免れても朝廷から追放され、過酷な運命が待ち構えていたのである。

 晴季が中央政界に復帰したのは、慶長3年(1598)に秀吉の死を待たねばならなかった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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