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徳川秀忠の妻の江は3回目の結婚だったが、そこには深い意味があった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川秀忠。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川秀忠が淀殿の妹の江と結婚したとの話題があった。江の結婚は3回目になるが、そこには深い意味があったので検討することにしよう。

 江は、浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の間に誕生した。江の初婚の相手は、尾張国大野城主の佐治与九郎平一成である。その時期は天正12年(1584)で、江は12才だった。

 当時、江は秀吉のもとにいたと考えられるので、この結婚は秀吉と佐治氏の関係を強化する政略結婚だった。天正10年(1582)の本能寺の変で信長が自刃すると、2人に大きな不幸が訪れた。

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、一成は羽柴(豊臣)秀吉方に与していたが裏切り、家康と織田信雄に味方した。秀吉は一成が裏切ったと知り、激怒したのである。

 そこで、秀吉は茶々(淀殿)が病気であると理由をつけて、江を強引に連れ戻した。秀吉は江を取り戻すと、「一成は婿として不足がある」と理由をつけて、江と一成を離縁させた。江の初めての結婚生活は、わずか2・3ヵ月で破綻したと推測される。

 正確な時期は不詳であるが、江に再婚する機会が訪れた。再婚相手は、秀吉の養子で丹波亀山城主の秀勝である。永禄12年(1569)、秀勝は、秀吉の姉の日秀と三好吉房との間に生まれた。

 秀勝は秀吉の甥であり、大きな期待を受けていた。天正18年(1590)に甲斐国を与えられたのは、その証左だろう。しかし、文禄元年(1592)9月9日、秀勝は朝鮮出兵中に唐島で病没したのである。

 江は秀勝と死別したが、3度目の結婚の機会が訪れた。文禄4年(1595)9月17日、京都伏見城において、江は秀忠のもとに輿入れしたのである。

 秀吉は江の3回目の結婚にあたって、江を養女にしたうえで輿入れさせた。あくまで、豊臣家から結婚させるのが目的で、それはいうまでもなく政略結婚だった。

 2人が結婚したときの年齢は、江が23才、秀忠が17才のときである。当時としては珍しい「姉さん女房」だった。この婚姻は、先述のとおり秀吉が家康との同盟関係を強化するための政略的なものである。初婚のときと同じく、江は政略結婚の手駒として使われたのだ。

 ドラマの中で、秀忠は妻を娶って喜んでいたが、実際はどういう心境だったのか不明である。秀忠には、小姫(織田信雄の娘)なる正室がいたという。しかし、2人の結婚生活が成立したのか、よくわからない。

 秀忠は、江との間に家光らをもうけた。江にとっては、最後の結婚にして幸せをつかんだのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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