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耄碌した豊臣秀吉は失禁し、意味不明な言葉を叫ぶなど、あまりに悲惨な最期を迎えた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、耄碌した豊臣秀吉の最期の場面を描いていた。秀吉の最期とはどういうものだったのか、考えることにしよう。

 慶長3年(1598)6月頃から、秀吉の病状が悪化していた(「多田厚隆氏所蔵文書」)。秀吉の病状を案じた朝廷は、病が平癒することを祈願して神楽を催した(『御湯殿上日記』)。

 当時、医者はいたものの、医療技術が現代のように高くなかったので、人々が頼りにしたのは神仏だった。

 秀吉の病状はかなり深刻で、失禁することもあったという。今でいうところの寝たきり状態だった可能性もあり、認知症を患っていたのかもしれない。

 秀吉の病名は判然としないが、脳梅毒説、痢病(赤痢・疫痢の類)説、尿毒症説、脚気説などの諸説がある。その後、平癒の全国祈願は各地の寺社で執り行われたが、秀吉の病が回復することはなかった。

 この頃は、まだ慶長の役が続いており、日本側の武将の間には厭戦ムードが漂っていたが、秀吉が病に伏せていたので撤退すらままならなかった。秀吉が五大老や五奉行をたびたび呼び出し、後事を託し始めたのは、ちょうどこの頃からである。

 秀吉には秀頼という一子がいたが、その行く末が心配でたまらなかったのである。秀頼はまだ6歳の子供だったので、秀吉の心中は察するに余りある。

 秀吉は臨終に際して、自身が所有していた茶器、名画、名刀、黄金を多くの人々に与えた(『甫庵太閤記』)。とりわけ有力な徳川家康や前田利家には厚く、下々の者にまで贈られたという。

 秀吉の臨終に関しては、宣教師のフランシスコ・パシオの貴重な報告が残っている(ルイス・フロイス『日本史』に記録)。

 その報告によると、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態になって愚かしいことをしゃべったという。残念ながら、秀吉がしゃべった内容は不明である。秀吉が死の直前まで心配し続けたのは、秀頼の行く末だったのは間違いない。

 こうして、秀吉は同年8月18日に亡くなった。秀吉がもっとも恐れていたのは、五大老の1人である家康だったに違いない。秀吉はその家康を頼りにして、死の瞬間まで秀頼を守り立てて欲しいと願ったのである。

 恐れていた人物に将来を託すのは、矛盾しているようだが、そうせざるを得なかった。ところが、秀吉の期待は、2年後の関ヶ原合戦で見事に裏切られてしまったのである。

 秀吉は農民の出身だったので、頼りになる譜代の家臣がいなかった。頼りになる弟の秀長は先に亡くなり、養子として迎えた秀次には自害を命じた。そのような状況のなかで死を迎えた秀吉は、重臣たる五大老に秀頼のことを託さざるを得なかった。

 秀吉は一代で天下人に上り詰めた稀有な人物だったが、頼りになる家臣や縁者がおらず、その晩年は悲惨だったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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