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文禄の役の際、豊臣秀吉が見せしめとして改易した3人の戦国武将のその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
朝鮮半島。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉による文禄の役の模様が描かれていた。

 文禄2年(1593)の朝鮮半島における戦いで、3人の戦国武将は秀吉から戦場での行為を厳しく叱責されたうえ、改易処分(所領の没収)となった。その後、3人の戦国武将はいったいどのような運命をたどったのだろうか。

1 大友義統(おおとも よしむね:1558~1605)

 豊後の戦国大名の大友義統は、平壌城の戦いで救援要請を大苦戦していた小西行長から受けた。ところが、義統は行長が戦死したとの誤報を信じて、戦場から退却したのである。

 ところが、行長は命からがら戦場を離脱していた。その結果、義統は行長を見殺しにしたことになってしまい、この報告を耳にした秀吉は「臆病である」と激昂し、改易処分としたのである。

 義統は家康ら諸大名に預けられたが、慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、西軍に属して旧領の豊後を奪還しようとした。豊臣秀頼の保証があったという。

 結局、義統は待ち構えていた黒田如水の軍勢に敗れ、戦後は出羽の秋田実季に預けられたのである。義統は慶長10年(1605)に亡くなったが、子の義乗は徳川家に旗本として仕えた。

2 島津忠辰(しまづ ただとき:1565~1593)

 島津忠辰は島津氏庶流の薩州家の家柄で、島津義久に従っていた。文禄の役では、島津義弘(義久の弟)に従っていたが、忠辰は義弘の陣立とは別にしてほしいと秀吉に申し出た。

 しかし、秀吉は申し出を許さなかったので、忠辰は仕方なく義弘の配下として出陣したが、仮病を使って朝鮮半島に上陸しなかった。これは規律を乱す大問題だった。

 この報告を聞いた秀吉は激怒し、忠辰の身柄を小西行長に預け、その直後に改易処分とした。忠辰はあまりにショックを受けたのか、処分後まもなくして朝鮮の加徳島の小西陣中で病没したのである。

3 波多親(はた ちかし:生没年不詳)

 波多親は鬼子岳城(岸岳城:佐賀県唐津市)主で、文禄の役では鍋島氏に従って出陣していた。しかし、親は鍋島氏の与力であることを潔しとせず、独自に行動していた。

 これは軍令違反であり、そもそも秀吉は親のことをこの時点で快く思っていなかった。そのうえで、戦場における卑怯な行為を咎めて改易としたのである。

 秀吉はあまりに激昂していたので、親が名護屋(佐賀県唐津市)に上陸することを許さなかった。親は秀吉の書状を船上で受け取り、改易になったこと、徳川家康の預かりになったことを知った。

 その後、親は常陸筑波(つくば市)で亡くなったといわれているが、没年は諸説あり、定まっていない。一説によると、親は汚名をそそぐため、慶長の役に出陣したというが、疑わしいとされている。

まとめ

 秀吉が3人の戦国武将を改易処分としたのは、「見懲り(見せしめ)」だった。厳しい処分を科すことにより、日本軍に緊張感を与えようとしたのだろう。しかし、秀吉の方針にもかかわらず、徐々に諸大名の間では戦意が薄れていったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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