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豊臣秀吉の「唐入り」により、高揚した我が国の神国意識

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の朝鮮出兵が取り上げられていた。ドラマのなかではスルーされたが、秀吉の唐入り直後から、三韓征伐の話がさまざまな史料に取り上げられるようになった。なぜ、そのようなことが起こったのか、考えることにしよう。

 天正20年(1592)5月、日本軍は臨津江の戦いで朝鮮軍に勝利した。この戦いの勝利によって、日本軍には大きな弾みがついたのである。

 ときを同じくして、日本側の史料には三韓征伐の伝説が載せられ、同時に神国意識が高まったと指摘されている。この点について、もう少し考えてみよう。

 三韓征伐とは、伝説上の人物の神功皇后(仲哀天皇の皇后)が臨月だったにもかかわらず、朝鮮半島の新羅を討伐し、百済も高句麗も日本に降伏したというものである。

 帰国した神功皇后は応神天皇を出産し、その即位まで七十余年にわたり、摂政として政治に携わったという。むろん、史実とは認めがたいが、よく知られた伝承である。

 臨津江の戦い後、田尻鑑種(鍋島直茂の家臣)の『高麗日記』には、神功皇后の三韓征伐の話が書かれている。吉野甚五左衛門(松浦鎮信の家臣)の『吉野日記』にも、「日本は神国たり」の言葉に続き、三韓征伐の話を載せている。

 2つの日記が同時に三韓征伐の話を記載したのは、決して偶然ではないだろう。

 下川兵大夫(加藤清正の家臣)の『清正高麗陣覚書』には、清正が朝鮮出兵に際して三韓征伐の話を引き合いに出し、自らが先陣を切って高麗国王を捕らえる決意などを載せている。

 清正はオランカイの戦いにも勝利したが、その勝因は日本が神国であるからだと述べた。清正の神国意識は、先述した『吉野日記』と重なっている。

 その背景には、九州各地に広まっていた、神功皇后による三韓征伐の逸話があった。河上大明神(與止日女神社:佐賀市)には、河上與止日女(神功皇后の妹)が蒙古(ママ:朝鮮が正しい)を退治した際、「新羅国の大王は日本の犬也」と書きつけた逸話がある(『肥前古跡縁起』)。

 秀吉は朝鮮出兵に際して、三韓征伐の逸話を記す『神功皇后異国退治縁起』を目にしたという。おそらく秀吉は、この縁起に基づいて、長門国府で仲哀天皇と神功皇后の社祠を参詣したのだろう。

 それは単なる戦勝祈願ではなく、朝鮮は征服の対象であるというロジックを正当化するものだった。やがて、こうした秀吉の考えは、朝鮮に出兵した諸将に伝わった。

 秀吉は南蛮までをも征服対象とする、自らが日輪の子であるという言説と三韓征伐とを結び付け、日本の神国意識を高揚させることに成功した。

 朝鮮に渡海した武将たちの間には、朝鮮侵略を正当化する神国意識が共有され、それが戦いの原動力になったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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