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「愛する女性はただ一人」。生涯にわたり側室を持たなかった3人の戦国武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成にも側室はいなかった。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、次々と徳川家康の側室が登場した。戦国武将は後継者や同盟の問題があって、側室を迎えることが多かった。しかし、中には側室を持たなかった戦国武将もいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

1 石田三成(1560~1600)

 三成の妻は、宇多頼忠の娘で皎月院という。宇多氏は信濃の武将で、もともと小笠原氏に仕えていたという。その後、頼忠は今川氏に仕えたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、天正年間に至って羽柴秀長(秀吉の弟)に仕えたという。三成と皎月院が結ばれたのは、天正6年・7年(1578・79)頃といわれている。

 2人の間には、重家、重成ら3男3女の子が誕生した。とはいえ、皎月院の史料は乏しく、その生涯は神秘のベールに包まれている。慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で三成が敗れると、佐和山城(滋賀県彦根市)にいた皎月院は、三成の家臣によって殺害されたという。その最期や没年にも諸説ある。

2 黒田孝高(1546~1604)

 孝高が播磨国の志方城(兵庫県加古川市)主の櫛橋伊定の娘の光を娶ったのは、永禄10年(1567)といわれている。翌年、誕生したのが嫡男の長政である。当時としては珍しいことに、孝高は側室を迎えなかった。

 天正6年(1578)、荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、孝高は翻意を促すため有岡城(兵庫県伊丹市)へ行ったが、捕らえられて幽閉された。このとき黒田一族は、光を「御本丸」と称し、職隆・休夢(高友)の支援を得て一致団結した。その1年後、孝高は体がボロボロになりながらも無事に帰還を果たしたのである。

 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が間近に迫ると、光が人質として大坂城下にいあたので、孝高は東西両軍のいずれに与するか悩んだ。このとき光は、石田三成の見張りをかいくぐって、密かに大坂・天満屋敷からの脱出に成功し、夫の待つ豊前中津に帰還した。結局、孝高は東軍につき、勝利したのである。

3 山内一豊(1545?~1605)

 弘治3年(1557)、千代は近江国(あるいは美濃国)で父を若宮友興、母を石川四郎娘として誕生した。「千代」あるいは「まつ」と呼ばれ、のちに山内一豊の母・法秀院に侍女として仕えた。こうして千代は法秀院に働き振りを認められ、一豊と結婚したのである。千代は結婚する際、実家から黄金10枚を渡されていた。

 あるとき、一豊は1匹の名馬に目を奪われた。これを知った千代は、黄金10枚で早速この名馬を買い求めた。織田信長が城下で馬揃えを行った際、この名馬が目に止まり、一豊の心がけが褒められた。一豊の出世の糸口になった有名なエピソードである。もちろん、これだけではない。

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が近づくと、一豊は徳川家康に従い、会津に出陣した。同じ頃、大坂にいた千代は石田三成が挙兵を計画していることを知り、すぐに夫に知らせた。その手紙の中で、千代は万が一人質になれば自決する覚悟であると記し、家康に忠節を尽くすように書き送った。結果、東軍は勝利し、一豊は土佐国に20万石を与えられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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