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実は明や朝鮮だけではなかった。あまりに壮大な豊臣秀吉の東アジア征服構想

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、文禄の役の模様が描かれていた。私たちのイメージでは、豊臣秀吉のターゲットは明や朝鮮だけに思えるが、実際には東アジア征服構想を抱いていた。その点について、詳しく触れることにしよう。

 天正20年(1592)5月18日、秀吉は関白の豊臣秀次に対して、驚くべき構想を打ち明けた。それは、全部で25ヵ条の覚書となっており、なかでも次の4項目は重要だった(「尊経閣文庫所蔵文書」)。

①関白秀次を中国の関白にする。そして、北京の周囲100ヵ国を与え、来年早々に出陣するように準備を整えること。

②翌々年の1594年に後陽成天皇を北京に移し、周囲の10ヵ国を進上する。その範囲で公家衆にも知行を宛がい、後陽成が北京に移動する際には、行幸の形式を取る。

 なお、この行幸計画は秀吉から前田玄以に命じられ、真剣に検討された(「徳富猪一郎氏所蔵文書」など)。

③後陽成の行幸後の後継者と日本の関白秀次の後任問題について、後陽成の後には皇太子良仁親王か皇弟智仁親王のどちらかを天皇にする。

 そして、日本の関白は、豊臣秀長の養子の秀保か宇喜多秀家にする。

④朝鮮には、織田秀信(信忠の嫡子)か秀家を置く。肥前名護屋には、羽柴秀俊(後の小早川秀俊)を置く。

 この計画は実行に移されなかったが、玄以は後陽成に北京行幸のことを伝えたのだから、秀吉が真剣に検討していたのは疑いないだろう。さらに、秀吉は朝鮮の諸将らに対して、次のとおり朝鮮全域に配置を命じた(『土佐国蠧簡集』)。

①毛利輝元:慶尚道(288万7790石)

②小早川隆景:全羅道(226万9379石)

③四国衆(福島正則等):忠清道(98万7514石)

④毛利吉成:江原道(40万2289石)

⑤宇喜多秀家:京畿道(77万5113石)

⑥黒田長政:黄海道(72万8867石)

⑦加藤清正:咸鏡道(179万4186石)

⑧小西行長:平安道(179万4186石)

 朝鮮に出兵した大名も決してボランティアではない。秀吉は朝鮮全土を支配することを前提として、諸将に配置を命じた。とはいえ、朝鮮の人々の抵抗は激しく、結果として秀吉が提示した案も幻に終わったのである。

 天正20年(1592)の時点で、すでに秀吉の東アジア征服構想は披露されていた。秀吉は日明貿易の拠点だった寧波に移り、さらに天竺(インド)を侵略しようと考えていた(「組屋文書」)。

 天正18年(1590)には、琉球(沖縄)、高山国(台湾)、ルソン(フィリピン)にも服属と入貢を要求していたことが知られている(「尊経閣文庫所蔵文書」)。

 秀吉が明や朝鮮を侵略しようとした理由は諸説あるが、際限なき領土拡大欲があったのも事実だろう。しかし、他国に攻め込み、安定した支配を行うのは困難であり、秀吉の構想は実現しなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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