豊臣秀吉の子の鶴松は、なぜ、いったん捨て子に出されたのか
大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉と淀殿との間に鶴松が誕生していた。秀吉は実子に恵まれず苦労したにもかかわらず、いったん鶴松を捨て子にしたという。なぜ、秀吉はそんなに酷いことをしたのか、考えることにしよう。
秀吉には「おね」という正室がいたが、なかなか実子に恵まれなかった。一説によると、側室との間に男子が誕生したというが、実子なのか養子なのか、今も論争となっている。
とはいえ、秀吉は多くの側室を抱えていながら、子が生まれなかったのだから、原因は秀吉の生殖能力にあった可能性が高いといえよう。
そうした秀吉の運命を変えたのが、側室の淀殿だった。淀殿は浅井長政とお市の方(織田信長の妹)との間に誕生し、天正16年(1588)頃に秀吉の側室に迎えられた。
その経緯は不明であるが、少なくとも秀吉が淀殿の美貌に惚れ込んだとか、あるいは女性好きだったとか、そのような個人的なことに求めるのは、いささか的外れであると思える。
同年、淀殿は懐妊し、翌年5月27日に鶴松を生んだ。誕生したのは淀城(京都市伏見区)で、以後も淀殿は住んでいたので、「淀殿」と称されることになった。
当時、秀吉は53歳と高齢でもあり、ことさら鶴松の誕生を心から喜んだ。何といっても、後継者が誕生したのだから、その喜びは尋常なものではなかった。
我が子の誕生を喜んだ秀吉は、最初「棄(すて)」と名付けた。「棄」とはいささか奇妙な名前だが、もちろん名付けた理由があった。当時、捨て子は良く育つという民間信仰があった。
我が子の健康と長寿を願った秀吉は、別に捨て子にしたわけではないのだが、形式的に捨てたことにし、あえて「棄」と名付けたのである。その後、しばらくして鶴松と改名したのである。
鶴松の誕生は朝廷や諸大名も祝い、各地から祝儀の品々が届いた。その後、秀吉は本格的に鶴松を後継者にすべく、淀殿とともに大坂城に迎えたのである。
しかし、天正18年(1590)7月、淀城に戻っていた鶴松は、にわかに病に伏せた。奈良の興福寺で病の回復を祈念すると、その効果があったのか、ほどなくして鶴松の病は癒えた。秀吉は、病弱な鶴松のことを常に心配していたという。
翌年閏1月、再び鶴松は病に伏せたが、このときもしばらくして全快した。しかし、同年8月2日に鶴松が病気に罹ると、その病状が深刻であることが明らかになった。
秀吉は神仏にすがり、寺社に加持祈禱を命じたが、その3日後に鶴松は淀城で病死したのである。秀吉が悲嘆に暮れたのは、言うまでもないだろう。
相前後して、秀吉は甥の秀次を養子に迎えていたが、のちに秀頼が誕生することによって、豊臣家に暗雲が立ち込めた。この点に関しては、ドラマの進行に合わせて取り上げることにしよう。