小田原に遅参した伊達政宗は、死を覚悟して死装束で豊臣秀吉に面会したのか
大河ドラマ「どうする家康」ではスルーされていたが、小田原に遅参した伊達政宗は、死を覚悟して死装束で豊臣秀吉に面会したといわれている。その背景もあわせて、ことの次第を考えてみよう。
天正17年(1589)6月、伊達政宗は家臣を上洛させると、前田利家らを介して、かねて敵対していた葦名氏を討伐した旨を秀吉に報告した。前年10月、葦名氏は秀吉に臣従していたので、政宗は念のため報告したのだろう。
しかし、秀吉はすでに上杉景勝から、政宗が葦名氏を討ったことを聞かされていた。秀吉の政策基調は、私戦を禁止する惣無事にあったので、これは大いに問題視された。
同年7月、秀吉は問責使を政宗のもとに派遣し、なぜ葦名氏を討伐したのか問い質した。同時に秀吉は、佐竹氏や上杉氏に政宗を討つように命じていた。以後、秀吉は政宗に繰り返し上洛し、弁明するよう求めた。
政宗は家臣を上洛させると、浅野長政を介して弁明に努め、さらに前田利家らに贈り物をし、秀吉への執り成しを依頼した。天正18年(1590)になると、秀吉は小田原征伐を決意し、臣従した諸大名は出陣した。
政宗は秀吉に弁明する一方、相馬氏や佐竹氏を討つべく、諸大名との連携を進めた。佐竹氏は上杉氏や秀吉に援軍を求めたので、秀吉は北条氏を討ったあと、引き続き政宗を討伐しようと考えていた。
ところが、秀吉が小田原に出陣すると、政宗の態度は急変し、家臣らを交えて対応策を練った。その結果、政宗は小田原出陣を決意したのである。同年4月、政宗は弟の小次郎を殺害したが、家中は小田原出陣をめぐって揺れていたのだろう。
同年4月、政宗は小田原に向けて出発したが、途中で北条の領内を通過するのが困難であることを悟り、いったん引き返した。その後、秀吉方の浅野長政らは、政宗に強く出陣を求めた。
同年6月、政宗は小田原に到着したが、秀吉はすぐに面会せず待機させた。そこへ前田利家らが訪れ、葦名氏を討伐したこと、小田原に遅延したことを政宗に詰問したのである。
政宗はその一つ一つに答えたところ、秀吉はそれらの罪を厳しく追及しつつも、死罪や改易を申し付けることなく許したのである。その代わり、会津、岩瀬、安積を没収し、本領に二本松、塩松、田村を加えて安堵した。こうして政宗は、何とか窮地を脱したのである。
一説によると、政宗は前田利家ら諸将が居並ぶ中、死装束で身を包み、秀吉に対面したといわれている。懐には小脇差を忍ばせ、秀吉と刺し違える覚悟だったという。
しかし、秀吉は「もう少し遅ければ、ここが危なかった」と言い、首のあたりを杖で突いたので、政宗は首に熱湯を掛けられる思いがしたという。有名なエピソードである。
この逸話は、政宗が後日になって前田利常に直接話したことを次の間で聞いた者が伝えたものである。のちになって、利常に仕えた関屋政春が『関屋政春覚書』に記したというが、少なくとも死装束の記述は見られないという。
小脇差の件は記述があるものの、そんな危険を見逃したのか疑問が残る。秀吉と面会するのだから、事前に配下の者が政宗の身体をチェックし、仮に小脇差を差していたら取り上げただろう。
主要参考文献
小林清治『伊達政宗』(吉川弘文館、1959年)
萩原大輔『異聞 本能寺の変 『乙夜之書物』が記す光秀の乱』(八木書店、2022年)