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大河ドラマでは完全スルーされた、小田原城開城に貢献した黒田官兵衛・長政父子の功績

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、小田原城が開城し、北条氏は事実上滅亡したが、ドラマでは黒田官兵衛・長政父子の活躍が完全にスルーされた。小田原征伐において、官兵衛・長政父子がいかに活躍したのか紹介することにしよう。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉は総勢約22万という軍勢を引き連れ、小田原征伐を開始した。早速、官兵衛は北条氏照の備えを陥落させ、秀吉から太刀を与えられた(「黒田家文書」)。

 北条氏は小田原城に惣構を築き上げ、さらに既存の支城ネットワークを活用しつつ、秀吉軍を撃退しようと考えた。一方の秀吉は、小田原城の近くに石垣山城を築城するなどして対抗したのである。

 戦いは、秀吉軍が優勢のまま推移し、北条氏が期待した支城は次々と落とされ、勝利の望みが消滅した。北条家中では重臣の松田憲秀が裏切るなど、徐々に内部崩壊の兆しが見えており、厭戦ムードが漂っていた。

 そこで、秀吉はその状況を見逃さず、官兵衛を起用して開城勧告を行うことにした。秀吉の命を受けた官兵衛は北条方の太田氏房と交渉し、和議を提案したのである。

 交渉役に官兵衛が起用されたのは、むろんこれまでの調略戦における実績が買われたからである。官兵衛の小田原城を開城すべきという説得に対して、北条氏政は賛意を示さなかったという。

 しかし、北条氏直は開城命令を受け入れ、自らの命と引き換えに城兵の助命嘆願を行った。この申し出を聞いた秀吉は氏直の命を助けたが、氏政や重臣らには死を命じた。さすがの官兵衛も、氏政や重臣の助命嘆願で秀吉を説得できなかったようである。

 官兵衛が北条氏政・氏直父子に開城を申し入れたとき、酒などを贈り、返礼として刀や『吾妻鏡』が贈られたと伝える。のちに、この『吾妻鏡』(北条本といわれているもの)が官兵衛の子の長政から徳川家康に呈上されたといわれているが、現在この説は否定されている。

 一連の戦いでは、長政も大いに活躍した。長政は小田原城攻撃のため、同年4月に箱根山峠への着陣を命じられていたのである(「黒田家文書」)。

 官兵衛が交渉役を務めるのに対し、実際の攻撃軍に長政が加わっていたのである。官兵衛から家督を継いだ長政は、秀吉の期待に応えるべく活躍をし、黒田家を背負うだけの十分な力量が備わっていた。

 同年9月、官兵衛は豊臣秀次から尾張国中島郡内に3000石を与えられた(「黒田家文書」)。この加増は、小田原合戦の軍功によるものと考えられるが、親子2人で勝ち取ったのは事実である。以後も、官兵衛・長政父子は、秀吉の先兵として活躍を期待されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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