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徳川家康は泣く泣く江戸に行ったのではなく、実は前向きだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
江戸城の桜田二重櫓と桔梗濠。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が徳川家康に江戸に行くように命じていた。従来説によると、秀吉は家康を遠ざけるため、あえて辺境の地を与えたなどといわれてきたが、現在ではすっかり見直されているので、詳しく考えることにしよう。

 天正18年(1590)7月に小田原北条氏が滅亡すると、秀吉は家康に関東へ移ることを命じた。家康が本拠として選択したのは小田原(神奈川県小田原市)ではなく、江戸(東京都)だった。

 そこには、秀吉の強い意向があったという。今でこそ東京は日本の首都として繁栄しているが、当時は決してそうではなかった。江戸は交通の要衝であったが、まだまだ発展の途中だった。

 秀吉が家康に関八州を与えた理由は、その存在を脅威に感じていたからだといわれてきた。そこで、秀吉は関東の辺境地に家康を追いやることで、その力を削ごうとしたという。家康もそれを知っていたが、秀吉に逆らうことが叶わず、泣く泣く応じたといわれている。

 しかし、それは俗説に過ぎないと指摘されている。秀吉の命令なので、家康に選択の余地はなかったものの、現在ではもっと積極的な評価がなされている。

 秀吉は家康を関東に配置することにより、北関東や東北の諸大名の備えにしたといわれている。小田原北条氏を討ったとはいえ、まだ奥州には抵抗する大名も残っており、決して油断できなかった。

 秀吉は家康の力量を評価していたからこそ、あえて江戸に本拠を置くよう命じたのであり、意地悪などではない。

 江戸は決して不便な地ではなく、中世を通して関東各地の街道が集結しており、陸上交通の至便性が高かった。また、品川湊を通じた海上交通、隅田川などの河川交通も発達していた。

 江戸は優れた陸上、海上、河川の交通網により、関東内陸部から沿岸部の周辺諸国とネットワークで繋がっていた。江戸は発展途上の地とはいえ、大いに可能性を秘めており、家康も悲観的ではなかったのである。

 家康は江戸に入ると、江戸城の築城に取り掛かった。江戸城は、康正3年(1457)に太田道灌が築いたのがはじまりであるという。以後、上杉氏が居城とするなど、幾多の変遷を経て、大永4年(1524)に北条氏綱の支配下に収まった。

 とはいえ、家康が関東を支配するには、江戸城の整備は不可欠だった。城そのものの改修だけではなく、規模の拡大と城下町の整備が必要だったのである。

 家康は江戸城の改修を行ったが、創建期の一次史料は乏しく、二次史料に依拠する必要がある。家康が江戸に入った時点で、江戸城は小規模な城に過ぎなかった。そこで、家康は二の丸などを増築するなどし、少しずつ規模を拡大していった。

 当時の江戸城は江戸湾に近接していたので、湾内の埋め立てなども行い、広大な城下町を整備した。江戸城の改修や城下町の整備はその後も続けられ、徐々に充実したものになったのである。

 当時、少なくとも秀吉と家康の確執はなく、家康も前向きに江戸に入部し、江戸城や城下町を整備しようとした。秀吉もまた政権における家康の立場を尊重し、大いに期待していたと考えるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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