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ここまで強い存在感を示した大久保忠世とは、いったい何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が江戸に入ることになり、小田原城は配下の大久保忠世に任されることになった。忠世は、いったいどういう人物だったのか紹介することにしよう。

 大久保氏は、松平氏の譜代の家臣だった。大久保氏の祖の忠茂には、忠俊と忠員(ただかつ)という、2人の子がいた。

 忠俊の子が忠勝である。忠員の子が忠世である。忠世が誕生したのは、天文元年(1532)のことである。忠世は、岡崎城にほど近い羽根村に本拠を定めていた。

 元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは、武田軍の陣営を銃撃して混乱させ、武田信玄から賞賛されるような軍功を挙げたといわれている。敵からも認められるような働きぶりだった。

 天正3年(1575)の長篠の戦いでは、織田信長が驚くような戦いぶりを見せ、弟の忠佐ともども大いに軍功を挙げた。戦後、忠世は家康から二俣城(静岡県浜松市)の守備を任された。

 同城は、三河と遠江の国境に近い重要な城だったので、いかに家康が忠世を信頼していたかがうかがえる。同城の天守台、向かいに築かれていた鳥羽山城の庭園は、忠世の手によるものであると伝わっている。

 天正10年(1582)に本能寺の変で信長が横死すると、家康は甲斐・信濃に侵攻した。忠世は軍勢を率いて攻め込むと、諏訪頼忠を降参に追い込み、小笠原氏などの有力諸氏を味方につけた。

 そして、信濃の支配を家康から任され、小諸城(長野県小諸市)に在番した。その際、忠世は家康に対して、依田信蕃を味方にすれば、信濃国はたやすく手に入れることができると進言したという。

 天正13年(1585)、家康は真田氏が籠る上田城(長野県上田市)を攻撃した。結果は敗北だったが、同じ頃に家康の重臣の石川数正が家中から出奔するという事件が起こった。

 家康は忠世に使者を送り、すぐに戻ってくるよう命じた。忠世は弟の忠教(大久保彦左衛門)に小諸城の守備を任せると、ただちに家康のもとに向かった。やはり、家康の忠世に対する信頼は厚かったのである。

 天正18年(1590)、小田原征伐で北条氏が滅亡すると、家康は江戸に入部することになった。小田原4万5千石を任されたのは忠世である。この石高は、井伊直政、本多忠勝、榊原康政に次ぐ4番目だった。

 忠世が亡くなったのは、文禄3年(1594)のことでだった。家督を継いだのは、嫡男の忠隣である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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