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鶴松は豊臣秀吉の初めての子ではなく、それ以前にも実子がいたという奇妙な話

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに豊臣秀吉と淀殿との間に待望の男子が誕生した。鶴松である。一般的には、鶴松が秀吉の最初の子であるといわれているが、そうではないという考え方もある。そこで、秀吉の最初の子とされる石松丸について考えてみよう。

 竹生島の宝厳寺(滋賀県長浜市)には、「竹生島奉加帳」という史料がある。この史料には、「御内方」(秀吉の正室のおね)、「大方殿」(秀吉の母の仲)に加えて、「石松丸」、「南殿」の名を確認できる。

 南殿は秀吉の側室と言われているが、その生涯はほぼ不明である。秀吉の子とされる石松丸も詳しい史料が乏しく、生年すら不明である。まさしく謎だらけだ。

 問題となるのが石松丸で、秀吉と南殿の間にできた男子であるといわれている。ところが、石松丸と南殿の名は並列して記されているので、本当に2人が母子の関係にあるのかは不明である。

 とはいえ、「竹生島奉加帳」には、秀吉の身内の名が列挙されているので、少なくとも石松丸は、秀吉の子と考えるべきだろう。石松丸は、丹羽長秀と柴田勝家のそれぞれの1字をもらい、秀勝と名乗ったという。

 一説によると、石松丸の母は、秀吉の側室の松の丸殿(京極高吉の娘)であるといわれている。しかし、石松丸が亡くなったのは天正4年(1576)のことで、松の丸殿が秀吉の側室になったのは、その7年後のことである。年代的に矛盾するので、史実とは認めがたいであろう。

 石松丸についてはわからないことだらけだが、妙法寺(滋賀県長浜市)には石松丸を描いたとする肖像画が残っている(焼失したので写真が残る)。

 また、石松丸が亡くなったのは天正4年(1576)10月14日のこととされ、法名「朝覚霊位」と記された供養塔が今も残る。徳勝寺(滋賀県長浜市)には、法名「本光院朝覚居士」と記された位牌がある。

 先述のとおり、現時点においても、石松丸が秀吉の実子だったのか、そうでなかったのかという論争がある。実は、秀吉の姉の日秀尼の子で、のちに秀吉の養子になったという説すらある。とはいえ、実子にしても、養子にしても明確な史料的な根拠がない。

 実子であれ、養子であれ、石松丸が秀吉の子であった可能性は高いと言える。秀吉に限らず、後継者たる男子がいることは極めて重要であり、実子がいない場合は養子を迎えた。

 石松丸が秀吉の実子なのか、養子なのか根拠となる史料はないが、それよりも秀吉に後継者たる男子がいたことが重要であり、実子か養子なのかを問うのはナンセンスなのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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