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徳川家康の本姓は源氏ではなく、なぜ藤原氏だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が徳川家康に権中納言の位を仲介していた(その後、家康は正三位に)。

 ところで、徳川氏といえば、源氏(新田氏流)の流れを汲むので、本姓は源氏つまり「源」であると思われている。しかし、実際に家康は藤原氏を本姓として用いていた。その理由を考えてみよう。

 本姓とは、天皇から下賜された姓のことで、名字とは別個のものである。たとえば、足利義満は本姓が「源」なので、正式には源義満という。永禄9年(1566)12月、家康は従五位下・三河守に叙位任官され、あわせて松平から徳川に改姓した。

 そもそも家康の本姓は、「源」だった。しかし、このとき家康が与えられた口宣案(辞令書)には、「藤原家康」と書かれていた。なぜ家康は、本姓を「源」から「藤原」に改姓したのだろうか。

 その答えは、慶長7年(1602)2月20日付の近衛前久書状に書かれているので、(「近衛家文書」)以下、その概要を記しておこう。

 正親町天皇は家康を公家として処遇したかったが、家康の家系の徳川では先例がなかった。ところが、徳川の源氏には2つの系統があり、惣領の系統が藤原氏になった例が報告された。この情報を知らせたのは、吉田兼右だった。

 そこで、家康の本姓を「源」から「藤原」に変更することで、従五位下・三河守の叙位任官が叶ったのである。当時は先例を重んじる気風があったので、こうした「裏技」を使ったのである。

 家康の「松平」から「徳川」への改姓は、永禄9年(1566)12月3日付近衛前久書状に事情が書かれている(「近衛家文書」)。実は家康が「徳川」に改姓するまで、書状などに「徳川」と署名した文書はない。改正以後もわずか2通の書状を除き、自ら「徳川」と署名した文書もない。

 この前久の書状によると、誓願寺(京都市中京区)で納所を務めた慶深なる者が、「徳川氏は、かつて近衛家に仕えていた」と証言したことが書かれている。

 この件については、「松平」のままでは従五位下・三河守への叙位任官が困難だったので、家康が「徳川」に改姓することで認めてもらうよう画策したのではないかと指摘されている。こうして家康は、晴れて公家の仲間入りを果たした。

 ところで、一般的に「徳川」と表記するが、公家の間では「得川」と書かれていた。先の前久の書状には「徳川は得川と書くのが根本である。「徳」の字を書くのは、事情があるからだ」と書かれている。

 では、いつ頃から家康が本姓を藤原氏から源氏に改めたのであろうか。『聚楽行幸記』によると、天正16年(1588)4月の時点で家康が「大納言源家康」と誓紙に署名しているので、この頃から家康は源氏に改姓したと考えられている。

 家康は、明確に改姓した理由を述べていない。単に源氏に愛着があったのか、藤原氏が不本意だったが、仕方なく一時的に名乗っただけなのか不明である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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