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蒲生氏郷の死因は、石田三成による毒殺なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鶴ヶ城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が石田三成と邂逅する場面があった。一説によると、蒲生氏郷の死因は、三成による毒殺だったといわれているが、その辺りを検証することにしよう。

 氏郷は豊臣秀吉の重臣で、天正18年(1590)の小田原征伐後は、会津(福島県会津若松市)に42万石を与えられた。その後、氏郷は検地を実施し、さらに秀吉から加増されたので、結果的に91万石を領することになった。黒川城を大改修し、氏郷が居城としたのが若松城(鶴ヶ城)である。

 文禄元年(1592)の朝鮮出兵(文禄の役)に際しては、氏郷も名護屋城(佐賀県唐津市)に出陣した。しかし、慣れない土地でもあり、陣中で病に陥った氏郷は、翌年11月に会津に戻った。しかし、氏郷の病状は悪化する一方で、決して快方に向かわなかった。

 文禄3年(1594)、氏郷は上洛したが、すでに病はかなり進行しており、驚いた秀吉は家康や前田利家に名医を紹介するよう命じた。秀吉は氏郷に医師の曲直瀬玄朔の治療を受けさせるなどしたが、翌年2月7日に氏郷は京都伏見の自邸で病没した。

 家督は子の秀行が継承したが、のちの家中騒動によって、宇都宮(栃木県宇都宮市)12万石に減封された。

 毒殺説が記されているのは、『氏郷記』なる氏郷の一代記で、文禄4年(1595)に三成が秀吉と謀って、氏郷に毒を盛ったと書かれている。

 ところが、当時、三成は朝鮮半島に出陣中だったので、氏郷に毒を盛れるわけがないうえに、秀吉にしても、三成にしても氏郷を暗殺する動機が弱い。

 そのような事情もあって、現在、三成による毒殺説は否定されている。なお、三成による毒殺説は、『石田軍記』、『蒲生盛衰記』などにも記されている(直江兼続との謀議説もある)。いずれにしても、後世に成った史料なので、疑ってかかる必要があるだろう。

 ところで、氏郷の死因に関しては、玄朔の残した『医学天正記』に書かれている。氏郷は朝鮮出兵前の名護屋城で発症しており、診断の結果からして、直腸癌、肝臓癌あるいは肝硬変などの症状があったとされている。

 このように比較的信頼のおける史料に病状が記されており、その死因も推測できるので、三成による毒殺は考えにくくなったといえるだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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