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徳川家康が真田昌幸の討伐を取り止めた意外な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上田城の南櫓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と真田昌幸が面会するシーンがあった。豊臣秀吉は徳川家康に対して、真田昌幸を討ってよいと許可したが、結局は取りやめになった。その理由を考えることにしよう。

 天正13年(1585)、家康は武田氏遺領を有効に分配すべく、北条氏との話し合った。その結果、家康は昌幸に対して、沼田城(群馬県沼田市)を北条氏に明け渡すことを要求したが、昌幸は命令を拒否した。

 そこで、家康は昌幸を討つことにした。同年8月、家康は上田城に向けて、約7千の兵を遣わした。一方、上田城(長野県上田市)の昌幸の軍勢は、たった約1千(諸説あり)といわれている。

 徳川勢が大手門に突入すると、昌幸は隠しておいた丸太を落とさせ、徳川勢に弓・鉄砲を放った。さらに上田城の町家に強風に乗せて放火すると、真田方の武装した農民が一斉に徳川勢を攻撃した。徳川軍は撤兵しようとしたが、千鳥掛けの柵が退路を防ぎ、退却できない状況に追い込まれた。

 真田方は追撃の手を緩めず、戸石城の信幸(昌幸の子)が加勢したので壊滅状態になった。さらに矢沢勢が追撃戦に加勢し、神川に仕掛けた罠に徳川方の将兵が引っ掛かり、多数の将兵が溺死した。

 その後、家康は真田方の丸子城(長野県上田市)を攻めあぐね、ついに攻略できなかった。以後、20日間にわたり、家康は真田氏と交戦したが、にわかに状況は変わった。この間、上杉勢が増援するとの情報もあり、家康は撤退を命令し、上田城から退却したのである。

 その後、昌幸は再度の家康の来襲に備え、景勝の援助で上田城を改修した。景勝は上田城を対徳川氏・北条氏の最前線と捉え、上田城の大規模な改修工事に積極的な財政支援を行ったのである。

 天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従を誓うと、秀吉は真田、小笠原、木曽の3氏を家康に帰属させることを約束したが、昌幸だけが従わなかった。

 それどころか、昌幸は秀吉に人質すら供出しなかったので、秀吉は家康に真田討伐を許可したのである。同年7月、許しを得た家康は、真田討伐を進めることになった。

 ところが、すでに臣従していた上杉景勝の仲介もあり、同年8月に秀吉は昌幸を赦免した。その結果、家康は秀吉の命により、真田討伐を中止せざるを得なくなった。

 ほどなくして、昌幸は家康の与力大名になったのである。昌幸が上洛し、正式に豊臣家の家臣になったのは、天正15年(1587)のことである。

 真田は上杉氏を介して、秀吉に詫びを入れて臣従を誓った。家康からすれば、この機会に真田を討ち、その所領を併呑すればよかったのだが、それは叶わなくなった。上杉を介して秀吉に通じた昌幸のほうが、一枚上手だったと言えよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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