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自業自得か!? 女性関係で失敗して酷い目に遭った3人の武将と公家

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼家。(提供:イメージマート)

 先日、芸能人の不倫問題がネットニュースで話題になった。かつては「芸能の肥やし」であると黙認された節があるが、今やそういう訳にはいかない。それは昔も同じことで、ときに女性関係で失敗し、悲惨な目に遭う人々がいた。今回は、そのうち3人の武将と公家を取り上げることにしよう。

1.源頼家(1182~1204)

 頼家は頼朝の嫡男として誕生し、頼朝の死後は鎌倉幕府の2代将軍に就任した。しかし、最期は暗殺されたと考えられ、それゆえか芳しい話はない。頼家は安達景盛の留守を狙って、その妻を寝取るという蛮行に出た。あろうことか、頼家は景盛に逆恨みして討とうとしたという。将軍としてあるまじき行為だ。

 頼家の蛮行を阻止すべく、母の北条政子は体を張って景盛の討伐を止めさせた。頼家が数々の蛮行に及んだのは、背後に力を持つ乳母父の比企能員がいたからだった。しかし、頼家の蛮行により、御家人間には不満が溜まった。結果、比企氏は滅亡に追い込まれ、頼家も伊豆に幽閉され、不審死を遂げたのである。

2.猪熊教利(1583~1609)

 慶長14年(1609)7月、参議の烏丸光広以下、数名の公家が典薬・兼康備後の手引きにより、典侍広橋氏ら5人の官女と密通に及んだ。ことの発端は花山院忠長が兼康備後を介して広橋局と交遊関係を深め、これに猪熊教利が便乗する形で公家衆を誘い、たびたび乱交に及んだといわれている。

 むろん、ことの次第を耳にした後陽成天皇は激怒し、宮中の綱紀粛正を徹底すべく、関係者を極刑に処することを決意した。しかし、周囲から公家らの寛大な措置を願う声が沸き起こると、すべての処分は徳川家康に委ねられることになった。教利は西国に逃亡したが、のちに捕らえられ、同年10月に斬首されたのである。

3.薄田兼相(?~1615)

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣がはじまると、豊臣方に与した兼相は牢人衆を率いて、博労ヶ淵砦の守備を任された。ところが、同年11月29日に博労ヶ淵砦が蜂須賀至鎮に攻撃されると、あっという間に落とされてしまった。その理由は、ありえない衝撃的なものだった。

 兼相は戦いの前日から遊女屋に通っており、それが敗北という大失態の理由だった。それゆえ兼相は、「橙武者」と揶揄された。「橙武者」の意味は、「橙は酸味が強くて、正月飾りにしか使えず見かけ倒し」という意味であり、立派な体格をして武勇の優れた兼相も「見かけ倒し」だったと揶揄されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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