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神君伊賀越えの際、本多正信は窮地に陥った徳川家康を本当に助けたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本多正信を演じる松山ケンイチさん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、本多正信が神君伊賀越えの際に徳川家康を助けていた。この話が実か否か、真偽を検討することにしよう。

 天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長が横死すると、当時、堺(大阪府堺市)から京都に向かっていた家康の一行は、ただちに本国の三河国に戻ることにした。その際、伊賀国を越えたので、家康一行の逃亡劇は神君伊賀越と称されている。

 大河ドラマの中では、松山ケンイチさんが演じる本多正信が登場し、家康一行を助けていた。この話は、新井白石の手になる『藩翰譜』に書かれているので、以下、詳しく見ていくことにしよう。

 天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、家康は加賀国に住んでいた正信を召し寄せたという。三河一向一揆の際、正信は一揆方に与していたので、徳川家中から放逐されていた。

 正信は加賀国を出発し、大津(滋賀県大津市)に至った。その頃、家康は堺に滞在中だったので、信長が待つ京都で合流しようとした。しかし、先述のとおり、京都で信長が討たれたのである。

 明智光秀は畿内の通路を塞いだものの、駆け付けた正信は宇治(京都府宇治市)の上林氏を語らって、郷人などを御供として徴集した。そして、正信は多羅尾光俊の館を手配し、家康一行を迎え入れ、自らは光秀の軍勢を見張るべく警護した。

 こうして家康一行は、正信の機転により、伊賀国を経由して、無事に三河国に入国を果たしたのである。その後、正信は家康が天正18年(1590)に関東に移った際、上野国八幡を与えられ、再び徳川家中に迎え入れられたというのである。しかし、この話には、少なからず疑問がある。

 まず、ドラマの中の正信は、伊賀衆を率いる頭目になっていったが、『藩翰譜』には書かれていない。また、上野国八幡というのは誤りで、正しいのは相模国玉縄(神奈川県鎌倉市)である。加えて、正信が復権したのは、天正14年(1586)のことである(従五位下、佐渡守に叙位・任官)。

 そもそも神君伊賀越で正信がこれだけの功を挙げていれば、直後に召し抱えられるなり、知行が与えられたはずである。正信が神君伊賀越に関わった史料はこれ以外にないので、大きな疑問が残るといわざるを得ない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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