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神君伊賀越で徳川家康の窮地を救った多羅尾光俊とは、いったい何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
信楽高原鉄道の信楽駅ホームと信楽焼きのタヌキの置物。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、神君伊賀越の場面を描いていた。その際、徳川家康の窮地を救った多羅尾光俊が登場したが、いったい何者なのか考えてみよう。

 『寛政重修諸家譜』によると、光俊は永正11年(1514)に光吉の子として誕生したという。しかし、その前半生は不明であり、神君伊賀越に際して、ようやく史料上に姿をあらわす。以下、『寛政重修諸家譜』により、光俊の動向を確認しよう。

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀が織田信長を死に追いやると、家康はただちに上洛して、弔い合戦をしようとした。しかし、家臣らは戦いの不利を悟り、家康に断念させたうえで、本国の三河に帰還することにしたのである。

 ところが、すでに街道筋は敵地になっていたので、家康は長谷川秀一の導きにより、大和から河内、山城を経て近江に向かった。宇治田原(京都府宇治田原町)の住人・山口光広(光俊の五男)は、秀一を昔から知っていたので、自宅に一行を宿泊させた。

 そして、光広は飛脚を光俊のもとに送り、家康一行への助力を要請したのである。すると、光俊は嫡男の光太を伴って参上し、家康一行を信楽(滋賀県甲賀市)に招き入れた。

 光俊は甲賀衆を率いて家康一行を警護し、心を尽くして守ったので、家康は光俊を召し寄せて感謝の言葉を述べた。その際、光俊は崇拝していた勝軍地蔵の霊像を家康に献上した。その霊像は、今も愛宕山円福寺の本尊として残っているという。

 家康が三河国に向かう際、光俊は家康一行の警護として、三男の光雅、五男の光広に50人の従者、さらに甲賀衆150余人を付けたという。こうして家康一行は伊賀国を抜けて、伊勢国白子(三重県鈴鹿市)にたどり着いたのである。

 のちになって、家康は使者を光俊に遣わし、来国行の刀、時服(将軍などが諸臣に与えた衣服)、黄金、馬などを与えた。天正12年(1584)3月、家康は光俊に山城・近江の領国の内で所領を給与した。こちらについては、関連史料が残っている。

 秀吉の時代に関白秀次の事件が勃発すると、光俊は連座して一家はことごとく改易となり、信楽に蟄居した。ただし、『多聞院日記』によると、秀吉が光俊の所領の信楽を没収したのは、天正13年(1585)閏8月のこととする。光俊は96歳で、慶長14年(1609)2月に亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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