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明智光秀は左遷されたので将来を悲観し、織田信長を本能寺で討ったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の信長公廟。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、ついに明智光秀が織田信長を本能寺の変で討った。一説によると、光秀は将来を悲観していたというが、その点について考えてみよう。

 光秀が信長に仕えていたが、左遷されて将来に不安を抱いたという説がある。それが、不安説と称されるものである。いったいどういう説なのか、考えてみよう。

 天正元年(1573)、光秀は信長から近江国志賀郡を与えられた。天正7年(1579)には丹波平定を成し遂げ、そのまま丹波一国を拝領した。近江も丹波も京都に近い重要な地域だったので、光秀が順調に出世を遂げていたのは明らかだ。

 しかし天正10年(1582)、光秀は信長から近江・丹波を召し上げられ、代わりに石見・出雲が与えられることになったという。光秀が与えられるという石見・出雲は京都からはかなりの遠隔地で、いまだに毛利氏の勢力下にあった。

 つまり、光秀に2ヵ国を与えるというのは、実力で支配せよということである。その難しさは容易に想像され、とても円滑に支配できる状況にはなかった。このように酷い仕打ちを信長から受けた光秀は、左遷されたと思い込み、将来に不安を感じたという。

 光秀が石見・出雲に左遷されるという話は、『明智軍記』という編纂物に記されている。『明智軍記』は江戸時代の17世紀末期から18世紀初頭、つまり光秀の没後から約百年後に書かれた光秀の伝記である。残念ながら、著者はわかっていない。

 同書は誤謬も多く、独自の記事には他書の内容と整合しない記述が多くあり、裏付けとなる史料がない。よって、同書は質の低い二次史料と指摘されており、「誤謬充満の書」つまり歴史史料としては使えないと評価されている。

 したがって、光秀が石見などへ移される話は裏付け史料があるわけでもなく、とても信用することができない。光秀の将来に対する不安説は、成り立ち難いようだ。なお、光秀が羽柴(豊臣)秀吉の出世競争に敗れ、将来を悲観したという説もあるが、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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