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乱世の時代、「梟雄」と称された4人の極悪な戦国大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊勢宗瑞(北条早雲)。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長がかなりのワルに描かれているが、もっと悪いのがいた。今回は、戦国時代を代表する4人の極悪な戦国大名を紹介することにしよう。

1.斎藤道三(?~1556)

 斎藤道三といえば、油売り商人から身を起こし、ついに美濃一国を支配したといわれているが、今では俗説あるいは誤りとされている。実際は、親子2代で美濃の奪取を成し遂げたという説が有力である。

 父の跡を継いだ道三は、美濃土岐氏の有力家臣である長井氏を討つと、やがて守護代斎藤氏の名跡を継いだ。その後、道三は主君の土岐頼芸を追放して美濃を掌中に収めたが、その手段が謀略に満ちていたのである。

2.宇喜多直家(1529~1581?)

 宇喜多直家は幼少の頃、主君の浦上宗景から警戒されることを恐れ、アホのふりをしていたという。長じて直家は、義父の中山氏を騙し討ちにすると、スナイパーを使って備中三村氏の射殺を命じるなどし台頭した。

 さらに、安芸毛利氏と同盟して、宗景を備前から追放したが、のちに織田信長に味方して毛利氏を裏切った。死の間際、直家は家臣に殉死するよう命じたが、拒否されたというエピソードがある。

3.松永久秀(1510~1577)

 松永久秀は三好長慶に仕えていたが、その死後は足利義栄を擁立して、三好三人衆と対立した。その間、久秀は謀略の限りを尽くして、主君の家の三好家を弱体化させると、権力を掌中に収めたのである。

 やがて、織田信長が台頭すると配下に収まったが、何度も反旗を翻しては許されることを繰り返した。しかし、最終的に信長に戦いを挑んだが敗北し、信貴山城で最期を迎えた。茶釜とともに爆死したというのは誤りである。

4.伊勢宗瑞(?~1512)

 伊勢宗瑞(北条早雲)は一介の素浪人から身を起こしたなどの説があるが、今では誤りであると指摘されている。もとは幕府申次衆だったことが判明し、それなりの身分だったことが明らかになった。

 関東に下向した宗瑞は、堀越公方の足利茶々丸を討って伊豆を支配下に収めた。その後、大森藤頼の小田原城を落とし、さらに版図を広げた。その後、子孫は関八州を支配することになったのである。

 ここに取り上げた話は、近世に成立した二次史料に書かれ、信が置けないものもある。近世においては、主君を討ったり、騙し討ちにすることは、儒教の価値観と相いれなかった。謀略は、「悪」と考えられていたのだ。

 それゆえ、この4人は「梟雄」と称され、戦国の悪人と評価されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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