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武田氏の親族衆だった木曽義昌が裏切った当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
長野県木曽町(開田高原から見える御嶽山)。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡の描写が駆け足だったが、その遠因となった木曽義昌が裏切った理由を考えることにしよう。

 年が明けた天正10年(1582)、武田勝頼が織田信長との決戦の準備に余念がない頃、親族衆の木曽義昌に驚くべき動きがあった。義昌は信玄の娘を妻にしていたが、武田家の衰退ぶりに見切りを付けて、少しずつ距離を置くようになっていた。

 同年1月下旬、義昌はついに勝頼を裏切ると、信長に味方したのである。義昌は家臣・千村左京進を新府城の勝頼のもとに遣わし、信長方に寝返ったことを知らせたという。義昌の離反は青天の霹靂であり、勝頼にとって大きな打撃となった。

 義昌から武田家から離反したという報告を受けた信忠(信長の嫡男)は、ただちに信長に対して義昌が味方になったことを伝えた。信長は味方になった証として、義昌に人質を差し出すよう求めると、舎弟の上松蔵人が送られたという。

 勝頼は義昌が信長方に寝返ったことを知ると、人質として預かっていた義昌の母、嫡男、長女をすぐに処刑した。義昌は母らを失った悲劇を乗り越え、苗木(岐阜県中津川市)の遠山氏に出陣を求めた。それは、武田氏との戦いに臨むためだった。

 同年2月2日、勝頼は義昌の挙兵に対抗するため、武田信豊とともに新府城(山梨県韮崎市)から1万5千の兵を率い、諏訪の上原(長野県茅野市)まで兵を進めた。

 こうして武田軍は諸口を固め、義昌の攻撃に備えたのである。一方の義昌は信忠に書状を送り、援軍を送るよう要請していた。義昌の率いる軍勢だけでは、心もとなかったからだろう。

 同年2月3日、織田方は抜かりなく出陣準備を整えており、駿河方面から徳川家康、関東方面から北条氏政、飛騨方面から金森長近が軍勢を率い、甲斐への侵攻を開始していた。

 また、信忠が尾張・美濃の軍勢を率い、伊那方面から攻め込むべく、木曽、岩村へと向かっていた。武田氏は四方八方から攻め込まれることになり、最大のピンチを迎えたのだ。

 武田氏は高天神城の戦いで敗北を喫し、その弱体ぶりが露呈した。義昌は武田氏を見限り、妻子の命を擲ってでも、織田方に寝返るしかないと究極の決断をしたのだろう。以後、武田氏の家臣は続々と寝返ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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