Yahoo!ニュース

松平信康の死後、五徳やその子たちはどうなってしまったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、松平信康が死に追いやられた。信康の死後、五徳やその子たちはどうなったのか、考えることにしよう。

 最初は、妻の五徳である。信康が自害した翌年の天正8年(1580)2月、五徳は2人の娘を残して岡崎(愛知県岡崎市)を離れた。その後、父・織田信長の居城安土城の所在する現在の滋賀県近江八幡市に居を構え、生活費を賄うため長命寺に化粧料田を与えられた。

 天正10年(1582)6月に信長が本能寺で横死すると、五徳は信雄(信長の次男)を頼ることになった。その2年後に小牧・長久手の戦いが起こり、信雄と徳川家康は羽柴(豊臣)秀吉に戦いを挑んだ。しかし、両者が和睦を結ぶと、五徳は人質として、秀吉のいる京都に送られた。

 天正18年(1590)の小田原征伐後、信雄は秀吉により改易された(改易の理由は諸説あり)。結果、五徳は尾張国小折(愛知県江南市)に移り住み、その後は再び京都に住居を移転した。結局、五徳は再婚することなく、寛永13年(1636)に生涯を閉じた。享年78。

 天正4年(1576)生まれの登久姫と天正5年(1577)生まれの熊姫は、信康が自害したあとは家康に引き取られ、側室の西郡局によって育てられた。最初に、登久姫について触れておこう。

 天正17年(1589)、登久姫は父から家督を譲られたばかりの小笠原秀政の妻になった。結婚に際しては、秀吉の仲介があったが、これには深い理由があった。秀政の父・貞政は家康に仕えており、子の秀政(当時は貞政)を人質として、家康の家臣・石川数正に預けていた。

 しかし、天正13年(1585)に数正が秀政を連れて、秀吉のもとに走った。この一件により、秀政と家康の関係が悪くなった。そこで、秀吉は家康と秀政の関係を好転させるため、登久姫の秀政への輿入れを斡旋したのである。登久姫は慶長12年(1607)に亡くなった。享年32。

 一方の熊姫は、天正18年(1590)から翌年にかけて、本多忠勝の子・忠政と結婚した。忠政は、のちに姫路藩主になった人物である。2人は三男二女に恵まれたが、熊姫は寛永3年(1626)に亡くなった。享年50。

 五徳は再婚することがなかったが、秀吉らの庇護により生き永らえた。一方、2人の娘は、家康の政略結婚の一環として、それぞれが同盟する大名あるいは家臣の妻となったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事