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設楽原の戦いでは、戦国最強という「武田の騎馬軍団」が本当に存在したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
騎馬武者軍団。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、設楽原の戦いがメインだった。設楽原の戦いは、織田・徳川連合軍が戦国最強という「武田の騎馬軍団」を打ち破ったというが、「武田の騎馬軍団」が本当に存在したのか考えてみよう。

 天正3年(1575)5月21日、設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が戦った(設楽原の戦い)。織田・徳川連合軍は、戦国最強といわれた「武田の騎馬軍団」に勝利したというが、それは事実なのか。

 『信長公記』を読むと、武田軍が織田・徳川連合軍に突撃した模様が描かれている。ただし、全員が馬に乗って攻め込んだのではない。3番目に西上野の小幡一党は赤武者(赤備え)で攻め込んだが、「関東衆馬上の功者」と書かれている。

 「巧者」とは「熟練した」という意味があるので、馬での戦いが得意だったのだろう。しかし、小幡一党も過半が鉄砲で打ち倒されたという。ほかの武将も鉄砲の餌食になったが、馬で突撃したとは書いていない。

 小幡一党は「関東衆馬上の功者」と警戒され、実際に「馬入るべき行(てだて)」とあるので、馬で織田・徳川連合軍の陣営に攻め込んだのだろう。しかし、山県昌景らは、馬に乗って攻め込んだとは『信長公記』に書いていない。

 当時は兵農未分離の時代であり、武田氏の兵が騎馬を使った専門的な訓練を受けたとは考えにくい。それは小幡一党も同じことで、武士たちが馬を乗りこなすのには慣れていたとはいえ、騎馬軍団なるものが存在したのかは疑問である。

 さらに重要なことは、馬は扱うのが難しい動物だった。臆病な馬が馬防柵に体当たりするなどは、とても怖がってできなかっただろう。騎馬武者が軍役に応じて徴集されたのは事実としても、実際に馬に乗って出陣したのは、指揮官クラスなどの一部ではなかったのか。

 武田軍は1番から5番までで編成され、次々と突撃を繰り返しては、織田・徳川連合軍の鉄砲の餌食になった。結果、雑兵だけでも、約1万が戦死したという。『信長公記』の記述をどこまで信じるかであるが、武田軍の戦い方はあまりに無謀と感じる。

 当時の武将は軍功を挙げるべく、禁止されていた「抜け駆け」(ほかの武将よりも先に敵陣に攻め込むこと)を行うことがあった。武田氏の敗因の一つには、諸将の軍功を挙げるための無謀な戦いぶりも考慮する必要があるのではないか。

主要参考文献

藤本正行『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(洋泉社歴史新書y、2010年)

藤本正行『再検証 長篠の戦い 「合戦論争」の批判に答える』(洋泉社、2015年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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