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豊臣秀吉が作らせた黄金の茶室とは、どういうものだったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
抹茶。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、貧相な豊臣秀吉が登場する。最近、秀吉の黄金の茶室がオークションに出品され、3億円で落札されたというが、いったいどういう茶室なのだろうか。

 黄金の茶室は実際に大坂城にあったとされ、史料上の初見は天正13年(1585)のことである。当時、日本国内はゴールド、シルバーラッシュに沸いており、秀吉もその恩恵に浴した。

 天正14年(1586)1月、大坂城から京都の御所に運び込まれた。秀吉は年頭の参内に際して、正親町天皇に披露しようとしたのである。その前年、秀吉は関白に就任したこともあり、己の威勢を見せつけようとしたのだろう。

 御所に持ち込まれたというのだから、黄金の茶室は組み立て式だった。文字どおり茶室は金箔が全面に張られており、広さはわずか3畳にすぎなかった。黄金の茶室は天正15年(1587)に催された北野大茶会のほか、文禄の役に際しては名護屋城に運搬された。

 残念ながら、黄金の茶室の実物は残っていないとされている。石川県立伝統産業工芸館、MOA美術館、佐賀県立名護屋城博物館に複製が展示されている。MOA美術館の黄金の茶室は、著名な建築家の堀口捨己氏による監修を受けている。

 慶長3年(1598)8月に秀吉は病没したが、黄金の茶室は大坂城内に残ったままだったという。慶長19年(1614)10月に大坂の陣がはじまると、翌年5月に大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。黄金の茶室も大坂城とともに焼失したといわれている。

 謎として残っているのは、千利休が黄金の茶室の制作に関わったのかということである。利休は秀吉に茶を指導していたが、利休の方向性は侘び茶だったので、黄金の茶室のような派手なものと無縁だったように思える。

 残念ながら、利休が黄金の茶室の制作に関わった事実を裏付ける史料は存在しない。しかし、このテーマは昔から関心がもたれ、否定、肯定の面から議論が行われた。

 否定派は、黄金の茶室は悪趣味なもので、利休が関与するはずがないという見解を示した。一方の肯定派は、利休は秀吉に茶を指導していたのだから関与したはずで、豪華絢爛さも利休の美意識の一つだったと指摘する。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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